海外の小説と日本の小説の違い
このエントリーでは「海外の小説」と「日本の小説」の違いについてまとめます。なぜ「海外の小説」と「日本の小説」の違いを調査しているかというと、これから数十年をかけて、「日本の小説」の海外化が進むと考えているからです。
日本のお決まりのセリフが通じなくなっている
「日本の小説」の海外化が進むと考えている理由は、日本のお決まりのセリフが通じなくなっているというツイートを見たことがきっかけです。
ヒロインが顔を赤くしてうつむき「あんたなんか……だいっきらい」
というお決まりのセリフ、どう考えても「I love you」以外の意味を持たないのだけれど、これが読み取れない層が無視できない規模で現れているらしい、というのは耳にしたことがある。
では、なぜお決まりのセリフが通じなくなっているのか?それは2つの要因があります。
1つは空気を読む・察する文化が薄れてきていることです。
この話については、以下のエントリーで「聞き手側が頭を使う時代から、聞き手側に頭を使わせない時代へ」変わってきていることを書いています。
現代においては察する能力より、明確に伝える能力が重視されるようになりました。この傾向が進むと、美しい比喩や、ほのめかせる表現は伝わらなくなります。
2つ目は、共通の体験が失われつつあることです。
コロナ禍で学校に行けた人、リモートでしか授業を受けられなかった人、どちらもできなくなった人。色々な人が出てきましたよね。
テンプレ的な青春に憧れがあるけれど、実体験としては一つも体験できなかった人もいるはずです。
そうすると、小説で万人に理解してもらえる表現の幅が狭まります。高校生活を描いたラノベが多かったのは、ほぼすべての日本人が、高校生活という青春の一番輝く3年間を体験している。それが当たり前だったからです。
お気づきの方もいらっしゃるでしょう。上記2点はまさに欧米諸国の特徴(空気を読む文化がない、多様な人種が入り乱れて共通体験がない)でもあるのですよね。
これから海外の小説と日本の小説の違いを書いていきますが、私自身は、「日本の小説」が海外化するのはあまり望ましいことだと思いません。日本の文化はちゃんと残ってほしいと考えるからです。
しかしながら上記の変化は止まらないとも考えています。海外の小説の特徴を抑えることで、次の世代の小説の備えをしていただけたらと考えます。
※これから述べるのは一般的な傾向になります。例外的な作家はもちろんいらっしゃいます。そこはご了承ください。
海外の小説と日本の小説の違い1:解決すべき問題
日本の小説は、美学や哲学、心理学などに基づいて、人間ドラマや内省的なテーマを扱います。
私は何のために生まれてきた?私はどう生きる?私は君とどう有りたい?などです。解決すべき問題が自分の中にあるのが特徴です。
一方、海外の小説は、社会的な問題やアドベンチャーなどを多く扱います。解決すべき問題が自分の外にあるのが特徴です。
海外の小説と日本の小説の違い2:読後の印象
日本の小説は、内省的なテーマを扱っているが故に、作品を通して、著者が表現したいメッセージや考え方を強く感じられます。ラストに余韻を残る終わり方をすることも多く、登場人物と一緒に中にある問題を見つめてきた読者の心に、強烈に印象を残します。
一方、海外の小説では、解決すべき問題は自分の外にあり、事件や事象を解決していくことで爽快感を得るつくりになっているので、後味がすっきりしています。面白い!という読書体験は残るのですが、深いメッセージや考え方を感じることは少なく。あの物語は何だったのかな?と読者が自分自身で解釈しない限りは、印象に残りにくいです。
この違いがどこから来ているかというと、察する文化が無いことでしょう。海外の小説は読者に察することをもとめていないので、わかりやすく問題がスッキリ解決した姿を描写します。その結果スカッとするのですが、考察してみようと思わせる心残りもなくなります。
もちろん内面的な成長も書かれるのですが、具体的にどう成長したかが書かれるため、察しなくてもわかるようになっています。
海外の小説と日本の小説の違い3:比喩の違い
海外の小説は、登場人物が、有名な他の小説の登場人物や歴史上の人物などに例えられることがよくあリます。また、聖書・ギリシャ神話のエピソードがよく使われます。レオナルド・ダ・ビンチのモナ・リザのように世界的なアート作品が物語に登場することもあります。
日本の小説では、登場人物が、他の小説の登場人物や歴史上の人物に例えられることはほとんどと無いです。「古事記」や「日本書紀」「萬葉集」といった日本の古い歴史書のエピソードが使うことも無いです(逆に聖書やギリシャ神話はあります)。
この違いがどこから来ているかというと、共通の体験が無いことでしょう。海外において、国民が共有しているのは国の歴史だったり、宗教的な経典だったり、アート作品、有名な自国の作品だったりします。というより、それ以外ないんですね。
そのため、何かを例えようと思うと、そういったものになります。
一方、日本は共通の体験があるので、国の歴史や宗教やアートといった確固たるものに頼らなくても、美しい比喩で状況を描写し、伝えることができます。
しかし近年、婉曲表現が伝わらないという事例も出てきました。具体的には「ご遠慮ください(やめろの婉曲表現)」が通じないそうです。
海外の小説と日本の小説の違い4:海外の比喩
英語の比喩表現を見ると、共通の体験がない文化のなかで、伝わる言葉が見えてきます。ここではいくつかを紹介します。
ポイントは、動物や、誰もが共通で認識できるシンプルな単語、体に例えるといった点です。自分の感覚を言葉にするのではなく、外部の別のものに例える方法がよく使われています。
The sound of rain is music to my ears.(雨音は心地よい)
→雨を音楽に例えて表現。
You’re an angel!(あなたは本当に優しいのね!)
→相手の優しさを天使に例えて表現。
He is as brave as a lion.(彼は獅子のように勇敢だ)
→獅子という確固たるものに例えて表現。
She slept like a log.(彼女は丸太のように眠った)
→丸太という確固たるものに例えて表現。
Life is a journey.(人生は旅だ)
→旅という誰もが共通で認識できるシンプルな単語で表現。
Time is money.(時は金なり)
→金という誰もが共通で認識できるシンプルな単語で表現。
I wrote the body of the essay.(私はエッセイの本文を書いた)
→「本文」をbodyと体で例える。
I looked at the hands on the clock.( 私は時計の針に目をやった )
→時計の針を2本の手に例える。
まとめ
このエントリーでは「海外の小説」と「日本の小説」の違いについてまとめました。
「海外の小説」と「日本の小説」の違いを作り出しているのは、「察する文化」と「共通の体験」の有無です。
私自身はあまり好ましいことがと思いませんが、これから数十年をかけて、「日本の小説」の海外化が進むと予想しています。
価値観が多様となって察する下地がなくなり、かつ共通の知識がなくなっていく……そのような流れの中で、日本の小説的な表現にこだわりすぎると、理解されない可能性もあります。(読者にとって暗号化された文章なわけで。読解できないし、面白さも理解できない状況となり得ます。『昔の作品はよかった』と古い作品ばかり読む人も出てくるかもしれません)
これは少し頭の片隅においておくと、役立つかもしれません。
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