体験を経験に変える方法

2020年9月6日

「作家は経験したことしか書けない」に対する見解と、経験を増やす2つ方法

 こちらの記事を書いたところ、様々なご意見をいただきました。意見が異なる人ももちろんいらっしゃって、新しい気づきをいただいています。

 ただ、体験と経験の定義が個々人で合っていないために、議論が噛み合っていないというケースも見受けられます。
 就職活動でグループディスカッションをするとよくわかるのですが、何気なく使っている言葉の定義が、世間とずれているケースは多々あります。

 本エントリーでは私の考える体験と経験の違いを改めて書くことで、私の考える「作家は経験したことしか書けない」を皆さんへ正確に伝えたいと思います。

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体験と経験の定義

 体験と経験の意味を復習します。

・経験とは体験を通して自分で気付き、知識・知恵として得たこと。
・体験は、その場限りで後に残すことを考えないもの。 

 つまり、体験したことを自分の知識として残すと、経験に変わるのです。

 

日本大百科全書にも載っている

 並の辞書ですと、体験とは経験すること。経験とは体験することと書いていたりして、同じでしょう?となってしまいますので、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説から引用します。重要なポイントは、冒頭の太字部分です。

■体験の意味(冒頭だけよんで飛ばしてください)

 個々人に直接的に与えられる、知的な諸操作が加えられる以前の非反省的な意識内容をさす。経験が外界の知的認識という客観的な意味をもつのに対し、体験はより主観的、個人的な色彩が濃い。すなわち、知性による整序や普遍化を経ていない点で客観性を欠き、具体的かつ1回的なできごととして情意的な内容までも含んでいる。
 哲学史上、体験をもっとも重視したのはディルタイの生の哲学ないしは解釈学である。彼によれば、体験とは人間の主体的な働きそのものであり、生と世界とが出会う根源的な場にほかならない。しかし、体験はもっとも確実な所与である反面、主観的な偏狭さをあわせもつ。その制約を打破し、体験を全体的把握にまで高める作業が彼のいう「了解」である。体験はドイツ語に特有の表現であり、他のヨーロッパ語では「経験」になんらかの限定をつけてその内容を表す(たとえば「生きられた」経験)。[野家啓一]
『O・F・ボルノー著、戸田春夫訳『生の哲学』(1975・玉川大学出版部) ▽O・F・ボルノー著、麻生建訳『ディルタイ』(1977・未来社)』

 《体験の意味》

■経験の意味(冒頭だけよんで飛ばしてください)

 生物体、とくに人間が感覚や内省を通じて得るもの、およびその獲得の過程をいう。体験とほぼ同義だが、体験よりも間接的、公共的、理知的な含みをもつ。より正確な定義はきわめて多様だが、経験の成立の説明(因果発生的定義)は、今日では心理学や大脳生理学その他の諸科学の立場からくだされる。
 しかし、経験は認識や知識の一要因であるから、哲学的にも古来、認識論の根本概念であった。とりわけ近世以降、観察や実験を重視する科学の方法や理論が発展し、認識論が哲学の中心課題となるにつれて、「経験」は活発な議論の的となり、また「経験論」の有力な傾向が生まれた。経験をめぐる認識論の根本問題は、一方では経験が多少とも主観的、相対的であるのに、他方では、経験を一部に含む学問理論などの知識が客観的、必然的、公共的であるという事実をいかに説明するかにあり、次のような諸説に分かれる。
(1)近代理性論や一般に観念論の立場は、知識の確実性の根拠を理性や先験的基準に求めて、経験を知識における消極的契機と考える。
(2)逆に経験論は、経験を全認識の源泉と考えるが、その結果、知識の確実性を疑う懐疑主義、相対主義に陥る危険がある。
(3)カントは認識の起源および所与(しょよ)として経験を不可欠と考えながらも、知識の必然性の根拠を主観の先天的形成に求めて、両者の不可分な結合である現象界を学的理論の領域と考え、理性論、経験論の総合を試みた。
(4)現代実証主義の「感覚与件(よけん)」やプラグマティストのW・ジェームズの「純粋経験」などから明らかなように、現代経験論は、一方で個人的、個別的な所与である経験を理論的極限と考える。そして他方では、学的理論もそこから抽出、構成される記号体系として、経験を超えるものではなく、その必然性も先験的根拠にではなく、経験理解のための仮説、規則、要請などとしての拘束力に求められるべきだと考える。[杖下隆英]

《経験の意味》

 これによると
 体験は
「個々人に直接的に与えられる、知的な諸操作が加えられる以前の非反省的な意識内容」
 経験は
「生物体、とくに人間が感覚や内省を通じて得るもの、およびその獲得の過程」
 となります。なんだこれは。難しすぎますね。

 しかし体験の方の意味に、「経験が外界の知的認識という客観的な意味をもつのに対し、体験はより主観的、個人的な色彩が濃い」という記載があります。ここは重要なポイントで、経験とは客観的に捉えられるものなのです。

 客観的に物事を見ようと思ったら、ただ行為を行っているだけではダメで、その時々の気持ちをYoutuberさながらに実況したり、あとから振り返ってああいうことがあったと物事を整理しなければいけません。つまり、意識をしないと経験は積めないのですね。

 さて、ここでもう一つ難しい人と言葉をご紹介します。頭が痛くなってきましたら一度休んでいただいて、外の風景をみて一息入れていただき、また続きを読んでくださると嬉しいです。

 さあ、難しい人と言葉。

 それは精神分析学の創始者であるジークムント・フロイトと、彼が人間の心とは何かを考え、定義した「意識、前意識、無意識」の三層構造です。

フロイトの三層構造

 ジークムント・フロイトは「意識、前意識、無意識」の三層構造を定義しました。

●【意識:顕在意識】とは、眼で見たり、考えたり、感じていることに気づいていることで、自分が何をしているのか(行動)、何を考えているのか(思考)が自身でわかっていること。

●【前意識】とは、通常は意識に昇らないが、努力すれば意識化できる記憶等が、貯蔵されていると考えられる無意識の領域のこと(意識から無意識に脱落する狭間の場所)。例えば10年前の仕事内容とか、1年前に誰と話したとかなど。

●【無意識:潜在意識】とは、意識の奥底にある深い層のことで、意識から最も遠い領域のこと。一人称的主観として体験されない事態のこと。
 例えば特に何も考えず、いつも行っている定食屋で食事をすると、1週間前の定食が何だったを全く思い出せません。特に何も考えず排泄を行っていると、昨日何回トイレに行ったが全く思い出せません。また、子供の頃に両親や他の人がかけてくれた言葉は全く思い出せません。
 こういった、意識することなく行動していることや、意識ができあがる前に見たり聞いたり行ったりしたことが無意識の領域になります。

 この定義を見ると、見たり聞いたり行ったりしたこと(つまり体験と経験の結果)には、『意識に残るもの、前意識に残るもの、無意識に残るもの』の3種類があると理解いただけるのではないでしょうか。

 そして、人が自由に使いこなせるのが、意識に残るものと、せいぜい前意識に残るものだということも、お分かり頂けると思います。

 つまり「作家は経験したことしか書けない」という場合の経験とは、意識及び前意識に残ったことしか書けない、と同じ意味になります。

体験・経験には疑似体験も含む

 さらに、「作家は経験したことしか書けない」派の人たちの中でも、私がいう体験・経験は、現実世界で見たり聞いたり行ったりしたこと以外に、疑似体験も含んでいます。

 もちろん作家を目指す方であれば、多くの人は疑似体験(現実に起きたのではないものの本物に近い感覚を体験すること。物語の登場人物に自分を重ねたりすることによって起こる)ができる人だと思います。そういう人は、体験・経験の数を積み重ねていけます。
※もちろん、疑似体験ができなくても、体験の数が少なくても、実体験から「意識及び前意識」を作り上げることができれば、本は書けます。

私の考える「作家は経験したことしか書けない」

 ここまでの情報をまとめますと、私の提唱しているのは、下記の左半分「作家は経験したことしか書けない」考え方① のようになります。

 この意見を述べた時に、意見があわないのは、「作家は経験したことしか書けない」考え方② のようなイメージを持たれている方かなと感じております。もちろんどちらが正しいとは言えないのですが、私は①の考え方で、「作家は経験したことしか書けない」と考えました。

意識して経験をつむ

 経験の定義について書いてきました。

 ここまでの話を総括すると、「意識しないと経験にならない」そして「作家は経験したことしか書けない」となります。

 長い説明にお付き合いいただきありがとうございました。

 最後に、ここから学べるポイントひとつお伝えして終わります。
 「意識しないと経験にならない」そして「作家は経験したことしか書けない」ならば、作家がするべきことは1つですよね。
 そう、意識して経験を積むことです。

 体験と経験の違いをよく理解できるのは、模写かなと思います。模写は、イラストの練習方法のひとつで、プロの作品を書き写していく作業ですね。

 これを何も考えず漫然と行ってみてください。本当に時間の無駄ですから。

 私も昔、小説の挿絵を描けるようになりたくて絵の練習をしていました。トレース台に漫画の1ページを置いて、それを模写するのですね。ですが一切うまくなりませんでした。なぜなら「うまくナゾる」という以外に、何も考えていないからです。

 本当に行うべきだった模写は、例えばこの構図は、A4の紙を縦に3等分した一番右の線に顔の中心が来ているなとか、目と目の間隔は、間にもう一つ目が置けるくらいだとか、そのイラストの骨格となる設計部分を意識しながらの模写です。でなければ、ナゾルという経験以外に何も自分の中に蓄積されません。

 作家が経験すべき内容も同じです。漫然と物語を読むのではなくて、この物語がなぜ面白いのか、どうすればこの物語を発想できるのかといった骨格の設計を理解しながら読むことが大事です。

 作家同士のコミュニティに所属して、答え合わせができたりするとベターですね。

おまけ:母親の胎内にいた経験は書けないよ

 こんな意見があります。

 「作家は経験したことしか書けない」なら、経験したことは全部書けるってことでしょう。
 でも母親の胎内にいた経験はあるけど書けない。なぜですか?

 すでに意識・前意識・無意識の説明をしていますので、母親の胎内にいた経験は無意識の体験だったから書けないんだよね、と納得される方もいらっしゃると思います。ですがあえて、ここでは怖いことを書いてみます。

 「いつから自分が母親の胎内にいたと錯覚しました?」

 人が母親の胎内から生まれてくる……という知識は勉強という疑似体験を通して得られた知識ではないでしょうか。自分の記憶に母親の胎内にいた感覚がないなら、母親の胎内にいなかったことも考えられるのではないでしょうか。

 でも病院でだっこされている記憶があって……という方。
 その記憶は本当に自分の記憶でしょうか。例えばニュースtenの「めばえ」コーナーを見て、自分もああいうふうに抱かれていたのかなという思い込みで想像された記憶かもしれませんよ。

 ……などなど。
 こういった謎掛けを延々やっていくと、次の物語のアイデアが出てきそうです。
 記憶というのは、映画『マトリックス』等でも描かれていたように、普遍的なテーマですので、深く掘り下げてみると面白いかもしれませんね。

ここまで読んで頂きありがとうございました。
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