シン・ウルトラマンから学ぶ自己犠牲キャラクターの作り方

2022年6月28日

 シン・ウルトラマンを見ました。

 私の大好きな庵野秀明監督の新作ということで、楽しみにしていました。そしてウルトラマンの選択に感動しました。エンドロールでM87が流れたときには、子供の頃に憧れたヒーローに向けた歌のようだと感じました。庵野監督自身は様々な小ネタを仕込む人だし、それがわからない人にはわかってもらわなくていいという人だろうけれど、わからないなりに気になって、視聴後にネットで色々と調べました。

 例えばウルトラマンは1966年の企画段階ではM87星人だったが、台本に誤植がありM78星人となったこと。

 ゾーフィはゾフィーによく似た悪の宇宙人で、ゼットンを操るという誤情報があったこと。

 こういったアナログにありがちな間違いを作品に組み込むところは庵野監督らしいと思います。おそらく監督はアナログ独自の偶然起こるミスとか、たまたま全てが丸くおさまっていく偶然が好きなのでしょう。ウルトラマン自体が空を飛ぶ飛行機をみて思いついた産物のように思います(攻撃されたときに同じ姿勢のまま回転するところは飛行機を思い出しました)

 上記のアナログな間違いを踏まえて主題歌を聞くと、M87はウルトラ兄弟最強のM87光線を使うゾフィーからウルトラマンへの応援歌にも見えます。本当のゾフィーはゼットンをつかうようなひとではなく、ウルトラマンを強く支える兄だとも。

 いずれにしても1966年当時のウルトラマンの企画を庵野監督が再構成した映画でした。正義のミカタであるウルトラマンが、他の異星人と戦うというわかりやすい内容で、私はとても好意的に見ました。古いようで新しく感じたのは、自己犠牲をいとわないウルトラマンの行動でした。本エントリーでは、ウルトラマンというキャラクターについて書いていきます。

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1960年代にメジャーな高潔で勇敢な尊い行動をとる=自己犠牲的キャラクター

 自分を犠牲にしても人類を守りたい(M78星雲の種族から見ると完全な他者にも関わらずだ)という、他種愛と自己犠牲をもつウルトラマン。そのキャラクターは一昔前であればよくいたキャラクターだったと思います(鉄腕アトムや、うしおととらのとらなど)。しかし現代のキャラクターは自分の欲を満たすことや自分の利益を第一に考える人物のほうがメジャーで、ウルトラマンのあり方は異質に見えました。

 

 もちろん現代のキャラクターがそうなってしまったのには理由があります。

 現代においては、自己犠牲という行為が「高潔で勇敢な尊い行動」というよりも「ナルシスティックな自己満足」と扱われることが多いし、自分を蔑ろにしてまで他者に評価されたいという「自分に自信がないがゆえの他者依存」、他者を助けることによって得られる名誉への「名誉欲」は批判されがちです。自己犠牲は究極的にはエゴイズム(自己愛)の結果だとする心理学者もいます。

 けれども、そういった批判は本物の自己犠牲精神への冒涜だと思う。

 シン・ウルトラマンのクライマックスで、死の間際にいるウルトラマンに対し、ゾーフィがウルトラマンか神永のどちらかを助けることができると提案したとき、ウルトラマンは迷わず神永の命を救うように言いました。ウルトラマンには自分の利益を考えるような欲はなかった。このシンの自己犠牲精神はまっすぐで好印象だったし、模範にならない有象無象の自己利益第一の大人よりもずっと素敵に見えました。

 

 では、自己犠牲精神が斜に構えてみられる世の中で、なぜウルトラマンというキャラクターは受け入れられたのでしょうか。

それは日本人が横並びの民族であるため

 日本人は横並びの民族だとよく言われます。

 学校で出る釘が打たれるのも、弱そうな人がいじめられるのも、偉そうな教師が叩かれるのも、横並びの民族性に起因したものでしょう。

 ※現代はそこまでステレオタイプではないかもしれません。少なくとも私の時代はみんなでフレンドリーに同じように在ろうという圧力がありました。そしてシン・ウルトラマンの視聴層は私のような横並び教育を受けた人々だと思います。

 横並びの民族性を持つ人々の間では、自己犠牲がエゴイズムに見えます。なぜなら横並びで同じように育てられたことにより、他者も自分と同じような考えをもつはずだという推測に至り、ひとたび誰かが「自己犠牲」を言い出せば、「自己犠牲」など考えもつかない人々は「なぜこの人は自己犠牲などという訳のわからないことをするのか」と考えるからです。

 そして自己犠牲の理解できない人々が最終的に下す結論は「名誉欲やナルシスト的な気持ちで自分を犠牲にしている」という、自分でも理解できる理屈です。

 日本人は横並びの民族であるために、人の気持を推し量ることができ、結果として本質とかけはなれた結論を下すのです。

 この民族性のある国で自己犠牲的なキャラクターを受け入れさせるポイントは、「異人」です。

 例えば日本人の政治家が「私は自己犠牲的精神で政治を行う」と言えば、多くの日本人は嘘を付くなと言うでしょう。利益享受が目的だとしか思えないからです。

 しかしアメリカ人が「私は日本が好きだから、日本で自己犠牲精神で政治を行う」と言えば、多くの日本人は受け入れるでしょう。アメリカ人の考えることはわからないからです(その上で日本が好きという、好意を持っていることを表現してくれているから安心できたはずです)。

 これがアジア人だとまた印象が変わって面白い。中国人や韓国人は日本人と容姿が似ているから、考え方が推し量ることができると思ってしまうのでしょう。

 だから中国人が「私は日本が好きだから、日本で自己犠牲精神で政治を行う」と言っても、100%は信じられない人が多いのではないでしょうか。

 つまり自己犠牲精神をもつキャラクターが日本で受け入れられるためには、気持ちを推し量れない「異人」である必要があるのです。

シン・ウルトラマンは異人の物語

 シン・ウルトラマンでは多数の異人が登場です。ウルトラマン、ザラブ、メフィラス。いずれも考えが推し量れないキャラクターです。

 地球に対して好意を抱き自己犠牲をいとわないウルトラマン、他の文明を滅ぼそうとするザラブ、地球資源(人類)の独占管理で利益を得ようとするメフィラス。

 印象的だったのは、ザラブにしてもメフィラスにしても、ウルトラマンをそこまで酷く追い込んでいないことです。つまり、地球人類を見捨てればそれで済むレベルでしかない。ウルトラマンとメフィラスの居酒屋でのやり取りでもわかるとおり、異人間では確実にリスペクトが存在していて、地球人は同じレベルに存在しない。いわば絶対者同士の戦いなのですね。

 この状況であれば、地球人に味方してくれるウルトラマンを応援するのが私達でしょう。同胞のゾーフィに説得されても地球人を優先してくれたウルトラマンの好意を私は信じられた。

 こう書くと人類は自分の利益しか考えてないなーと思うのだけれど、ウルトラマンを好意的に見られるのは、こういう理由もあるかもしれない。

シン・ウルトラマンから学ぶ自己犠牲キャラクターの作り方

 まとめです。シン・ウルトラマンから学んだ自己犠牲キャラクターの作り方は、下記2点のポイントを抑えたキャラクターを作ることです。

 ・物語で同様に自己犠牲精神を持つキャラクターを書く場合は、異人にして人類に好意をもたせると良い。

 ・異人間の争いを書く場合には、主人公は何があっても人類の味方であることを示すと良い。

 自己犠牲精神をもつキャラクターを書きたい場合は、上記に気をつけると好印象のはずです。自己犠牲精神のあるキャラクターは、ヒーローとしてはメジャーで使い古されたものですが、現代では逆に新鮮で、素敵に見えました。よければ役立ててみてくださいね。

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