【映画×創作】君たちはどう生きるか——宮崎駿監督が最後に残した「問い」の正体

2023年の映画・アニメ ランキング 2位
2023年のアニメ映画ランキング第2位は、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』です。情報をほとんど出さないまま公開するという前代未聞のマーケティング、見に行った方々の感想は二極化しており「凄かった、圧巻」「深い、何回でも見たい」といった肯定と「面白いけどよく解らん」「気持ち悪い」という否定の賛否両論でした。この映画を語るのは正直なところ難しいです。
ですが「難しいから語らない」のは物語を書く人間としてもったいない。今回は複数の仮説を並べて、この映画の正体に迫ってみたいと思います。
なぜ賛否両論になったのか——「アート」と「エンタメ」の境界
最初に問いを整理します。「面白い映画なのか、つまらない映画なのか」ではなく、「なぜこの映画は見る人によって評価が真逆になるのか」です。
岡田斗司夫氏がこの映画について「世にも珍しいアニメで作られたアート」と評していましたが、この見方に近い立場です。本来、アニメは複数の人間で作るため、監督の頭の中にある「自分でもなんだかわからないもの」をスタッフに説明する必要があります。この「自分でもなんだかわからないもの」こそが作家の感性でありアートなのですが、しかし「自分でもなんだかわからないもの」を他の人に説明するために言語化したり、絵コンテを書いてしまうと、作家の中の「自分でもなんだかわからないもの(根源的なやりたいこと)」がどんどん失われてしまい、もはやそれはアートではなくなる、というのが普通なのです。
ところが今作では、宮崎駿監督はそれをやらなかった。あるいは、やれなかった。完成後の試写で監督自身が「おそらく訳がわからなかったことでしょう。私自身訳がわからないところがありました」とコメントしています。作品に込めたテーマが個人的すぎて隠したかったのか、場を盛り上げるための冗談だったのかはわかりません。ですが、言葉をそのまま受け取ると、監督の「自分でもなんだかわからないもの」がそのまま映画になったということです。
ここで創作論として重要な指摘があります。通常、物語は「伝えたいことを明確にする→それを伝えるための構造を設計する→実装する」という流れで作られます。いわゆるプロットファーストの方法論です。しかし宮崎駿監督は今作で、この順序を逆転させている。「描きたいシーンから描き始め、それらを直感でつなぎ、結果として浮かび上がるものがあればそれがテーマになる」というアプローチです。
これはいわゆる「パンツァー(即興型)」の書き方に近い手法ですが、宮崎監督の場合は60年以上のアニメーション制作の蓄積がバックボーンにある点が決定的に異なります。引き出しの数が常人と桁違いなので、直感で引いても一定のクオリティが担保される。いわば「無意識が編集者の役割を果たしている」状態です。
だからこそ、一つの明確なテーマを求めるエンタメ鑑賞者には「よくわからない」と映り、作家の内面を読み解こうとする人には「凄まじかった」と映る。賛否両論の理由は、作品の良し悪しではなく、鑑賞のフレームの違いにあったのだと考えます。
3つの仮説で読み解く——この映画は何を描いたのか
「何を描いた映画なのか」について、仮説を3つ並べてみます。どの仮説も一定の妥当性がありますが、どれか一つだけでは全体を説明しきれません。それ自体が、この映画の本質を表しているのかもしれません。
仮説1:母への憧れと不在の物語。宮崎駿監督は幼少の頃、母親が結核を患い、自宅に不在であることが多かったと語っています。この体験は『となりのトトロ』のメイとサツキの母の入院、『風立ちぬ』の菜穂子の療養シーンに反映されていると考えられています。「君たちはどう生きるか」でも、主人公の実母の死と義母の登場が物語の軸にあります。母の不在と、母に恥じない人間になりたいという願い。これは監督の数十年にわたる個人的なテーマの集大成ではないかという仮説です。
仮説2:過去のジブリ作品への鎮魂歌。映画の中には、トトロの森につながる草むら、ナウシカの大婆を思わせるキャラクター、ハウルの動く城のかまど、もののけ姫のコダマやショウジョウ、ラピュタの回廊を連想させるシーンが多数登場します。これは単なるファンサービスではないと思います。ガンダムシリーズにおける「Xミーニング」——名前や記号に歴史的文脈を持たせることで、それを知っている観客に別の物語を呼び起こす技法——に近いのではないかと感じます。過去の作品の要素を引用し、再構築し、そこに別れを告げる。宮崎駿という作家の「卒業制作」としての読み方です。
興味深いのは、これらの引用が「懐かしさ」ではなく「異化」として機能している点です。見慣れたはずのジブリ的モチーフが、奇妙な文脈の中に配置されることで、観客は不安を感じる。「知っているはずなのに知らない」という感覚。これは宮崎駿監督自身が過去の自分と決別しようとしている痕跡なのかもしれません。自分の作品が「ジブリ」というブランドに回収されてしまう現実に対する、クリエイターとしての最後の抵抗とも読めます。
仮説3:崩れゆく世界で「積む」ことの意味。映画の中で大叔父が積み木のような石を積み上げて世界の均衡を保とうとしますが、常に崩壊の危機にあります。今にも崩れそうな13個のブロックを積み上げる老いた大叔父と、若い命を犠牲にしながら生きながらえているペリカン。ここに現代社会のメタファーを感じました。完璧な世界は作れない。でも積み続けることを止めてはいけない。「君たちはどうするんだ」という問いかけです。これは創作者としても刺さる問いではないでしょうか。完璧な作品は書けない。思い通りにはならない。それでも書き続けるのか。
どの仮説が正しいのか、正直なところ私にもわかりません。ですが、どれか一つに決めつける必要はないのだと思います。この映画を見て何を感じてもいいし、どう解釈しても良い。その自由こそが、宮崎駿監督が最後に私たちに渡したギフトなのかもしれません。
創作者として気になったこと——プロットなき映画の功罪
ここからは創作者としての分析です。
本作は、プロットを書かずに小説を書き始めて、作家の書きたいシーンをすべて詰め込んだような映画だと感じました。キャラクターの言動はシーンごとに矛盾して見える部分があり、一つの答えを出そうとするとどうしても辻褄が合わない箇所が出てきます。
エンターテインメントの王道は「テーマを伝えるためにプロットを練り、シーンを設計する」ことです。実際、「君の名は。」や「天気の子」はそのアプローチで大成功しています。しかし本作は意図的にそこから逸脱した。
結果として「気持ち悪い」と評されることもあり、一方で「凄まじかった」とも評される。この事実は、プロット至上主義に染まりがちな私たち創作者にとって考えさせられるものがあります。「わかりやすさ」を手放したとき、何が得られて何を失うのか。この問いには簡単に答えが出ませんが、少なくとも考え続ける価値のある問いです。
一つの仮説を提示するなら、プロットの放棄が許されるのは「作家の内面それ自体が読む価値を持つほど濃密な場合」に限られるのかもしれません。宮崎駿監督の80年以上にわたる人生の蓄積があるからこそ、プロットなしでも映画として成立した。逆に言えば、これは蓄積のない作家が安易に真似できる手法ではないということです。
ただし、ここから一つ有意義な教訓を引き出すことはできます。プロットは「伝わりやすさの装置」であり、それを外すことは「読者への信頼の表明」でもあるということです。「わかりやすく伝えなくても、あなたなら受け取れるはず」という信頼。宮崎駿監督がこの映画を広告なしで公開したのも、同じ精神の表れではないでしょうか。自戒を込めて書き留めておきます。
あなたの物語に活かすなら
本作から学べることを整理します。
・過去の自分の作品を引用するXミーニングは、長くシリーズを書いている作家ほど強力な武器になる
・「答えを一つに限定しない物語」は、読者に深く考えさせる力を持つ
・ただしプロットの放棄は「アート」と「破綻」の紙一重になるため、相当な覚悟が必要
・テーマが個人的すぎると伝わりづらいが、だからこそ刺さる人には深く刺さる
・既存作品の引用は「懐かしさ」だけでなく「異化」としても使える
特に1つ目のXミーニングについては別の記事でも詳しく書いていますので、そちらもぜひ読んでみてくださいね。自作の中で意識的に過去作を引用する技法は、シリーズものを書いている方には非常に有効です。
そしてもう一つ、この映画から学ぶべきは「自分にしか書けないもの」を書く覚悟です。マーケットの需要や読者の期待に応えることも大切ですが、それだけでは到達できない領域がある。宮崎駿監督は82歳にして、商業的な成功も批評家の評価も度外視して「自分の中にあるもの」を映画にした。その姿勢そのものが、私たち創作者への問いかけになっています。どうですか、少し書ける気がしてきましたか?
まとめ
『君たちはどう生きるか』は、82歳の宮崎駿監督が残した問いそのものでした。答えは映画の中にはありません。見た人それぞれが自分の人生の中から見つけるしかない。タイトルが「君たちはどう生きるか」であって「こう生きろ」ではないのが、すべてを物語っていますね。
悪意に満ちた現実を前にしても、自分を受け入れながら前向きに生きていこうとする。宮崎駿監督が80年以上かけてたどり着いたその境地を、私たちも物語を通じて探ってみてはいかがでしょうか。崩れそうな積み木を積み続ける覚悟が、あなたの次の一作を支えてくれるはずです。そしてその積み木は、完璧である必要はないのです。崩れかけているからこそ、誰かが受け継ぐ理由になる。それこそが「君たちはどう生きるか」という問いの核心ではないかと感じています。
おまけ:「君たちはどう生きるか」をより楽しむために
「君たちはどう生きるか」は解釈自由のアート的映画です。見て感じたことをそのまま言葉にすれば良い……のですが、宮崎駿監督自身のことを知っておくと、より楽しむことができます。
私が「君たちはどう生きるか」を見るにあたり、宮崎駿監督について知っておいたほうがよいと感じたことを4つ紹介します。
「君たちはどう生きるか」原作本
映画の中で「君たちはどう生きるか」という本が出てきます。しかし内容については説明されることがありません。簡単にでもこの本の内容を頭に入れておくと、映画の見え方が変わります。映画の中で登場する本は1937年に書かれた吉野源三郎さんの小説ですが、2017年にそれを原作とした漫画が発売され大ヒットとなりました。
以下の記事に「君たちはどう生きるか」のあらすじやポイントがまとまっていますので、こちらだけでも読んでおくと良いです。
・人生の意味を知るには、心をうごかされたことの意味を正直に考えること
『君たちはどう生きるか』あらすじ・名言・要約・感想文まとめ
・見ず知らずの他人にも、生産関係(生きてゆくのに必要なものをつくるために、協働したり、手分けしたりして働くこと)で切っても切れない縁がある
・本当に人間らしい人間関係とは、お互いに好意をつくし、それを喜びとすること
・学問とは、人類の経験をひとまとめにしたもの
・学問を修め、人類がまだ解決できていない問題のために尽力すべき
・「生産する人」と「消費する人」という区別を見落としてはいけない(なんの妨げもなく勉強ができ、才能を思うままに伸ばしてゆけるということが、どんなにありがたいことか理解せねばならない)
・もっとも苦しいのは、「自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまった」という意識。過ちを苦しいと感じるのは、正しい道に従って歩こうとしているから
7/8に公開されたNHKの記事「謎に包まれたジブリの新作 鈴木敏夫Pに聞いた!」
「君たちはどう生きるか」というタイトルは、宮崎駿監督が子どもの頃に読んで衝撃を受けた、吉野源三郎の同名小説からとっています。鈴木さんはこの7年間、めまぐるしく変化する世界を目の当たりにして、このタイトルの受け止め方が変わってきたといいます。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230706/k10014119971000.html
「小説は原作ではありませんが、ミヤさんが子どものころに読んで受けた衝撃を、お客さんにも提供したいと思ったんでしょう。タイトルを聞いたときは正直、これをお客さんに問うのはどうだろうと思いました。ある種の、押しつけがましさのようなものを感じたんです。ところが、だんだん映画を作っているうちに、気がついたら世の中全体が『君たちはどう生きるか』という時代になってきた」
見る者に重く突きつけられるタイトル。果たして、何が描かれるのか。
「『君たちはどう生きるか』って言われたら、多くの人が、“うーん”とうなるでしょう。それがエンターテインメントのはじめだと僕は思います」
宮崎駿監督は、10年前の引退会見で、「子どもたちに“この世は生きるに値するんだ”ということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければならない」と語っていました。
過去のジブリ作品
過去のジブリ作品を見直しておくのもおすすめです。トトロの森につながる草むらや、ナウシカの大婆、ハウルの動く城のかまど、もののけ姫のショウジョウ・コダマ、ラピュタの回廊など過去の作品を連想させるシーンが多数あります。それらのシーンは過去のジブリ作品のメッセージとリンクしているように感じられます。
まさに一つの映像に2つ以上の背景をもたせる、X(エックス)ミーニングの究極系ですね。過去のジブリ作品を見ておくと、楽しさが倍増すること間違いなしです。
宮崎駿監督のご家族について
私は「君たちはどう生きるか」を見たとき、母親に関する憧れや、母親に恥じない人間になりたいという願いのようなものを感じました。
宮崎駿作品全般に言えることですが、監督はしばしば母の不在を描きます。監督が幼少の頃、母親が結核を患い、しばしば自宅に不在であったことが『となりのトトロ』のサツキとメイの母が入院しているアイデアに繋がり、『風立ちぬ』のヒロイン菜穂子の病気のシーンにも繋がったと考えられています。これらは監督自身が、母の結核で母と子の時間を満足に持てなかった体験の反映かもしれません。
「君たちはどう生きるか」はこうした監督の母との関係だけでなく、父との関係にも深く踏み込んだ作品になっています。そこで宮崎駿監督自身の家族事情についても知っておくと、映画の理解が深まるかもしれません。
宮崎駿監督の母について
宮崎:じつは就職するときに戸籍謄本を取って見たら、母親の実年齢がはじめてわかりました(笑)。それと親父の隠された半生が全部あきらかになったんです(笑)。親父にはおふくろとの結婚の前に最初の奥さんがいたということが、はじめてわかった。しかも学生結婚なんです。聞いてみたら、生きるの死ぬのと大騒ぎして結婚して、一年もたたないうちに相手が結核で亡くなっちゃった。「あんなに大恋愛の末の結婚だったから、大丈夫だろうか」ってまわりはずいぶん気を揉んだそうです。そうしたら一年もたたないうちにぼくらのおふくろと恋愛結婚することになって、まわりがのけぞった、という話があって(笑)。そういう男なんです。
『腰抜け愛国談義』
半藤:立ち入ったことを聞くようですが、お父さんの最初の奥さんとのあいだには子どもさんはいなかった?
宮崎:いなかったんです。一年もたたずに結核で亡くなっちゃったので、父は自分の結核が伝染したんだって言ってました。父も結核を患ってますから。
宮崎駿監督の父について
僕の父親は大正三年に生まれ、七九歳まで生きました。九歳のとき関東大震災にあっています。四万人近い焼死者を出した被服廠跡の広場を妹の手をひいて逃げまわり、生き延びました。(中略)
『本へのとびら――岩波少年文庫を語る』
父が死んでから何年もたって、小津安二郎の「青春の夢いまいづこ」を観て呆然となりました。主人公の青年が父とそっくりなんです。容姿も眼鏡があるだけで、ものの考え方や行動がそっくりなのです。アナーキーで享楽的で、権威は大きらいなデカダンスな昭和のモダンボーイの姿がそこにありました。
ニヒリズムの影がその底にあります。父はそのままの姿で戦前、戦中、戦後の昭和を生きたのでした。
九歳の少年が関東大震災で体験したことの重さが分かったように思いました。彼のアナーキーなニヒリズムは被服廠跡で体験したことと無縁ではなかったはずです。
そして、父は九歳で、僕は七十歳で同じ風の吹く時代に出会ったのだと思いました。
「君たちはどう生きるか」が賛否両論の理由は、この作品がアート的な映画であり、一つの答えがないことが原因でしょう。見た人それぞれが自分の解釈で楽しめる奇跡的な作品なので、見ないのはもったいないです。
その上で、「君たちはどう生きるか」を楽しむために最低限知っておくと良い情報を紹介しました。私自身はこの映画を見て、母親に関する憧れや、母親に恥じない人間になりたいという願いのようなものを感じました。
※それと同時に、今にも崩れそうな13個のブロックを積み上げる為政者と、若い命を犠牲にしながら生きながらえている老いたペリカンに現代社会のメタファーを感じたりもしました。悪意に満ちた自分を受け入れながら、地獄のような現実を前向きに生きていこうとするポジティブな感情も感じました。
「君たちはどう生きるか」見ておいて損はない作品です。それと同時に作家を目指す人間としては、プロットを書かずに小説を書き始めて、作家の書きたいシーンをすべて詰め込んだような作品は「気持ち悪い」と評されることもある……という事実に考えることがありましたね。テーマを伝えるためにプロットを練って、シーンを作り上げていくのがエンターテイメントの王道なのだと再発見しました。













