【物語論をわかりやすく解説シリーズ3】物語の構造分析
前回のエントリーでは物語論の概要やルーツをご紹介しました。いよいよエントリーでは物語の構造分析を行った人物と、その分析手法についてご紹介します。物語を内容として捉えるのではなく、構造として捉え、面白い物語をつくるための方程式を導こうとした人たちの話です。
物語の構造を分析し、解き明かそうとした人物
~ウラジミール・プロップ~
ロシアの文学者であるウラジミール・プロップは、世界初の物語の構造分析を行った、「物語の形態学」という書物を出版しています。
「物語の形態学」は1928年に出版されており、ロシア・フォルマリズムの考えを基に執筆された書物です。
プロップは「魔法の馬」や「イワンのばか」と言ったロシアの魔法物語(おとぎ話に近い)を分析していきます。
その結果プロップは、物語の構造が似通っていることに気づくのです。
そして「ロシアのあらゆる魔法物語は、その構造の点では、単一の類型に属する」と結論付けるまでに至ります。
物語の31の機能
プロップは、その「単一の類型」を31の機能に分けています。
1「留守もしくは閉じ込め」
2「禁止」
3「違反」
4「捜索」
5「密告」
6「謀略」
7「黙認」
8「加害または欠如」
9「調停」
10「主人公の同意」
11「主人公の出発」
12「魔法の授与者に試される主人公」
13「主人公の反応」
14「魔法の手段の提供・獲得」
15「主人公の移動」
16「主人公と敵対者の闘争もしくは難題」
17「狙われる主人公」
18「敵対者に対する勝利」
19「発端の不幸または欠如の解消」
20「主人公の帰還」
21「追跡される主人公」
22「主人公の救出」
23「主人公が身分を隠して家に戻る」
24「偽主人公の主張」
25「主人公に難題が出される」
26「難題の実行」
27「主人公が再確認される」
28「偽主人公または敵対者の仮面がはがれる」
29「主人公の新たな変身」
30「敵対者の処罰」
31「結婚」
長いのですべてを覚える必要はありませんが、ざっくりとした構造だけは理解しておきましょう。
かなり抽象的に言うとすれば、「目的があり、それを達成するために行動を起こし、成功させる」というのが基本的な類型となります。
しかしロシアの魔法物語を読んだことがある人がいるなら、「全然違う物語なんだけど・・・」と思ったのではないでしょうか?
ただ、あくまでプロップが言っているのは「構造」に関してです。
そして構造主義とは、内容を無視して分析します。
つまり構造は同じだが、内容、つまり設定や登場人物は違うことで、物語のバリエーションとなり、結果として別の物語が生まれる(別の物語に見える)、ということなのです。
例えば、機能の14番に「魔法の手段の提供・獲得」とありますが、どのような魔法を獲得するかは内容次第で変化するでしょう。
ラノベの「異世界転生シリーズ」では、異世界に転生した主人公が魔法を使えるようになり(あるいは何らかの特殊技能)、異世界での困難に立ち向かってく、というパターン化した流れがあります(例外はあるにしても)。
これも異世界転生シリーズの類型と呼ぶことが出来るでしょう。
しかしどんな形で異世界に転生するのか、どのような魔法をどのような形で手に入れるのか、などは作品ごとで異なっています。
そのため「異世界で魔法が使えるようになる」という同じ類型だったとしても、結果として、まるで違った物語が生まれる(物語に見える)のです。
またすべての魔法物語が、31の機能すべてを使うわけではありません。
順番こそ変わりませんが、どれかが省略されることがあり、それがまたバリエーションを生み出します。
こうしたプロップの構造分析において、もっとも重要な功績は、31にもなる「機能」を発見したことです。
では機能について詳しく見ていきましょう。
まず機能について重要なポイントは「物語の展開を直接進める人物の行為」です。
言い換えるなら、「カットしてしまうと物語が成立しなくなるシーンのこと」になります。
「この素晴らしき世界に祝福を!」を例に見てみましょう。
第1話で主人公の佐藤 和真(さとう かずま)は、高校生だが引きこもりのニートで、車に轢かれそうになる女子高生を助けようとして死んでしまいますが、女神のアクアによって異世界転生を条件に再び命を与えられるのです。
アクアと共に異世界生活をすることになった和真は、アクアから「ヒキニート!(引きこもりのニート)」と事あるごとに言われてしまします。
さらには生前の彼が身に着けていた「緑ジャージ」を和真は愛用しており、これについても幾度も話のネタに使われているのですが、仮に第1話をカットしてしまうと、こうした「ヒキニート」や「緑ジャージ」を使った数ある鉄板ギャグが、ミステリアスなものになるでしょう。
つまり「ヒキニート」で「緑ジャージ」を着た和真が、アクアの力で異世界転生を果たしたという描写は、物語を成立させるために必要な行為、つまりは「機能」となるのです。
「機能」の中でも、重要なものだけをピックアップして並べたものが「あらすじ」となります。
なぜあらすじを追えば本編の内容がある程度把握できるかと言えば、重要な「機能」が、あらすじと本編で同一だからです。
つまりは構造が同じということになりますから、結果として同じものに見える・・・これは構造主義の考え方でしたよね。
ただ「この素晴らしき世界に祝福を!」に関していえば、その多彩なギャグ要素から、当初の設定なんて知らなくても楽しめるレベルにまで昇華していくんですけどね(笑)
また31の機能の2番によって「禁止」され、3番で「違反」することにより、4番で敵による「捜索」が始まります。
しかしもし「禁止」されたときに、「違反」しなかったならば、当然「捜索」は始まりませんので、話は進まず、物語は成り立ちません。
このように機能に密接に関わってくる、「物語の展開を直接進める人物の行為」がなければ、物語は成立しないのです。
つまりプロップの提唱した物語論とは、「『機能』を構造主義における『要素』とみなし、物語の構造を分析すること」になります。
七つの行動領域
さらにプロップは登場人物に関して、「七つの行動領域」とまとめています。
物語は、「主人公が目的を達成する」という原則を基にデザインされているのです。
つまりプロップにとって登場人物とは、何をするのかという「役割のために存在している」ことになります。
20世紀の初めごろには、現代のように登場人物のキャラクター性を楽しむという文化は存在しませんでした。
物語としてはあったとしても、主流ではなかったのです。
物語とは話の筋を追っていくものであり、極端な言い方をすれば、登場人物とは、機能を遂行し、物語を進めるだけの、「舞台装置」に過ぎなかったのです。
前述した「行動領域」とは、登場人物の役割ごとの行動(機能)範囲のことを指します。
例を挙げると、主人公は機能の4番である「捜索」を行えません。
その理由は、「捜索」とは敵対者が行う行動だからです。
このように、各々の役割に準じた七つの行動パターンによって登場人物を振り分けたのが、「七つの行動領域」でとなります。
その名称は、「主人公(探究する者)」「敵対者(加害者)」「贈与者(提供者)」「助力者」「王女(探求されるもの)とその父親」「派遣者(送り出す者)」「ニセ主人公」の7種類です。
以下で「七つの行動領域」のそれぞれについて見ていきましょう。
〔主人公(探究する者)〕
目的を達成するために、探求し、行動する役割を持っています。
〔敵対者(加害者)〕
「主人公」の目的の遂行を妨害する役割を持っています。基本的には「主人公」単体で「敵対者」を倒すことはできません。その理由は、物語がすぐに終わってしまうからです。
〔贈与者(提供者)〕
「主人公」に魔法等の力を与える役割を持っています。その結果、「主人公」は「敵対者」を倒すことが出来るようになり、目的を達成します。
〔助力者〕
「主人公」を助ける役割を持ちます。「贈与者」を少し重なる部分はありますが、「助力者」は相棒的なポジションであり、「贈与者」は師匠的なポジションだと考えていただければ大丈夫です。
〔王女(探求される者)とその父親〕
「主人公」が手に入れる「目的」を具現化したもの(役割)です。大抵は王女ですが、「目的」が別の対象物で表現されることもあります。要するに、主人公の目的はすべて「王女」ということになります。
〔派遣者(送り出す者)〕
「主人公」が目的を達成するために行動するよう指南し、背中を押す役割を持っています。ただ、登場しないことも多く、七つの行動領域の中では、一番存在感が希薄です。
〔ニセ主人公〕
「主人公」が目的を達成し、旅を終えて故郷に帰ると、それより先に帰郷した「ニセ主人公」が、名声を自分のものとしている、という展開がロシアの魔法物語ではよくあり、そのためのポジション(役割)です。
また、ロシアの魔法物語では少ないですが、一人の登場人物が、二つの行動領域を持っている場合があります。
例えば、「主人公」がある女性と結婚をしたい場合、ある女性の役割は「王女」ですが、その女性が「主人公」を嫌いだとすると、女性は「主人公」の目的達成を妨害する、「敵対者」でもあるわけです。
つまりこの物語において、女性は「王女」と「敵対者」の二つの行動領域を持つことになります。
このように、「物語の形態学」という書物は、物語論の核心をついています。
ですが、当時この書物は全くと言っていいほど売れませんでした。
その理由は、大きく分けて2つあります。
1つ目の理由は、分析の範囲があまりにも狭すぎたからです。対象が「魔法物語」のみに限定されているため、それ以外の分析に使用できないのです。
例えば、日本昔話に31の機能を当て嵌めて見ればすぐにわかります。
特に「浦島太郎」はわかりやすいです。
なぜなら31の機能の2番目にあたる「禁止」が、ラストシーンに当て嵌まります。上記の理由から、プロットの理論が実際の作品の分析に使われることはほとんどありませんが、物語論の概念を説明するためには使用されます。
ただ、物語を創作する際なら、話は別です。実際、あの大ヒット作である「STAR WARS」の構造には、プロットの理論が使われています。
2つ目の理由は、時代にそぐわない前衛的なものだったからです。
「物語の形態学」は1928年に発売されています。それに対して、物語論が流行し始めたのは1960年代ごろであり、ジュネットの理論が完成したのは、さらに遅れて1970年代です。
つまり「物語の形態学」は、実に30年も、時代を先行していることになります。
当時はロシア・フォルマリズムの考え方が隆盛していた時代です。
構造主義の思想などありませんでした。物語論のルーツは下記のエントリーを参考にしてください。
確かに上記のルーツの記事で見たように、ロシア・フォルマリズムと構造主義は、親戚のような関係です。
しかしプロップは、ロシア・フォルマリズムの「形式で物語の分析をしよう」程度の物語論のご先祖的な思想を、物語論の概念にまで押し上げてしまっています。少し、というかかなり時代を先走りし過ぎたのです。
分かりやすく例えるなら、ダイヤル回転式の黒電話が流行っているときに、スマートフォンの雛形を作り出すようなものでしょう。
アラン・ダンダスのモチーフ
ここで、プロップの理論を応用し民話の研究をした、アメリカのアラン・ダンダスという人物にも触れておきましょう。
アラン・ダンダスは、1964年に、プロップの形態学をさらにシンプルな形に整理し、北アメリカ先住民民話にも適用可能な構造を見出します。
ダンダスは、プロップの「機能」という術語には多少の曖昧さがあるとして、語りの任意の命題を表す語句である、「モチーフ」という言葉を使い、「モチーフ素」と「異モチーフ」、というダンダス独自の言葉にまとめ上げたのです。
例えば、主人公が父親から船を貰い海外へ向かい出航する行為(具体的モチーフ)は、「外出」という「モチーフ素」になります。
仮にこのモチーフ素の「外出」という観点から、主人公が小舟を漕いで海を進む、という具体的な行為をすると、これは「異モチーフ」となるのです。「外出」に対して、具体的な行為「主人公が小舟を漕いで海を進む」が対応しています。
つまり「モチーフ素」は一つしかなく、その「モチーフ素」を実現する方法である「異モチーフ」は無数にあり得るということが分かります。
さらにダンダスは、北アメリカ先住民民話には、モチーフ素が対となり、物語に組み込まれていることがほとんどであるということに気づきます。
これに関しては、プロップも気づいていて、ロシアの魔法民話においても、機能が対としてグループ化されていることが多くあるのです。
例えば、「加害行為とその回復」、「欠落とその回復」、「戦いと勝利」、「追跡と脱出」、などが挙げられます。
ダンダスは、その内の、「加害行為とその回復」、そして「欠落とその回復」、この2つの「モチーフ素の対」こそが、北アメリカ先住民民話の基本単位であると(すべてではないが)、見出すのです。
つまり北アメリカ先住民民話の構成は、「不均衡の状態から均衡の状態への移行」という形式で成り立っていることになります(不均衡の状態とは、恐るべき、できれば回避されるべき状態のこと)。
しかし、さらに詳細に北アメリカ先住民民話を見ていくと、大枠としてのこの二つのモチーフ素の機能の間に、他の機能の対が挿入されていることが多くあるのです。
例えば、「禁止と違反」、「難題と難題の解決」、「奸計と奸計の成功」で、ダンダスが主要な対と考えるものになります。
そしてダンダスは、「欠落とその回復」という対となるモチーフ素に上記を当て嵌め、主要な3つのタイプを導き出すのです。
1:欠落+禁止+違反+欠落の回復(「欠落とその回復」+「禁止と違反」)
2:欠落+難題+難題の解決+欠落の回復(「欠落とその回復」+「難題と難題の解決」)
3:欠落+奸計+奸計の成功+欠落の回復(「欠落とその回復」+「奸計と奸計の成功」)
1と2の組み合わせは、北アメリカ先住民民話で最も多くみられる物語の図式となります。
また、「禁止と違反」の対は、4つのモチーフ素からなる別の組み合わせの出発点ともなるので、以下で見ていきましょう。
4:禁止+違反+違反の結果+違反の結果を逃れる試みの成功または失敗(「禁止と違反」+「違反の結果と違反の結果を逃れる試みの成功または失敗」)
これらは二つないし四つのモチーフ素の組み合わせによって成り立っていますが、しかし最も多くみられるケースは、六つのモチーフ素からなる組み合わせです。
5:欠落+欠落の回復+禁止+違反+結果+結果を逃れる試みの成功または失敗(「欠落とその回復」+「禁止と違反」+「結果と結果を逃れる試みの成功または失敗」)
この図式の場合、「欠落の回復」が均衡をもたらしているのは、ある一定の条件のみとなっております。
そこから、第三のモチーフ素である「禁止」が生まれるのです。
この関係性は、北アメリカ先住民との間に類話の多い、オルフェウス伝説の図式に見られます。
ダンダスは、「星聟(せいせい)」という、さらに長くて北アメリカ先住民の間で広く知られている民話を研究し、もっと複雑なモチーフ素の組み合わせを明らかにするのですが、それに関しても、モチーフ素の数そのものは六つまでしかありませんでした。
これは、北アメリカ先住民民話が複雑な民話ではなく、「継ぎ足し話」、つまりは「連鎖譚」であるということが、考えられるのです。
~クロード・ブレモン~
時代を先行し過ぎたプロップの研究は、長い年月にわたって忘れられていましたが、1958年に英訳され、フランスに輸入されることにより、ようやく注目されるようになります。
30年もの時を経て、ようやく時代がプロップに追いついたのです。
そしてプロップの理論を受け継いだのが、「クロード・ブレモン」という人物です。
ただ、受け継いだと言っても、ブレモン自身、プロップの理論がロシアの魔法物語にしか適用できない、ということを知っていました。
ですのでブレモンは、プロップの理論に登場する「機能」という名前のみ使用し、中身に関しては全くの別の物を作り上げたのです。
ブレモンは、プロップの「機能」を突き詰めていくと、「登場人物が行為を選択すること」に行き着く、と考えます。
つまりブレモンにとって「機能(物語を直接進める人物の行為)」とは、「選択すること」だったのです。
ブレモンは「機能」を以下の3段階に区分けます。
①「行動が起こる前」→②「行動が進行中」→③「行動が終結する」
「何か出来事が発生し、それについての複数の対処法が、読者の中で論理的に生まれ、その内の1つを選択することで、物語が展開する」、という流れこそが、ブレモンにとっての「機能」なのです。
RPGゲームを例にするとわかりやすいでしょう。
例えば勇者が森の中でモンスターに遭遇したとします。
すると勇者は、遭遇したモンスターに対して、「戦う」「逃げる」など、どのような行動(アクション)を起こすか、必ず選択をしなければいけません。
この段階が「行動が起こる前(①)」となります。
要するに、次のアクションに対する「選択肢が生じる展開」が、「行動が起こる前(①)」ということです。
そして「行動が進行中(②)」で、どれか1つの行動を選択します。
仮に勇者が「戦う」を選んだのであれば、「勇者は勝った」「勇者は負けた」などの「複数の結果(つまり選択肢)」が必然的に生じるでしょう。
勇者が「逃げる」を選んだのであれば、「モンスターに捕まる(逃げられない)」「モンスターに捕まらない(逃げ切る)」という「複数の結果(選択肢)」が新たに生じるのです。
このように、ブレモンの理論がプロップの理論と大きく異なる点は、「物語の筋は、最初から決まっているものではない」と考えた所にこそあります。
プロップの理論では、「31の機能」により、物語の筋はその枠からはみ出すことはありませんでした。
対するブレモンの理論では、登場人物等には選択をする場面がいくつも用意されており、それら「行動に結びつく選択肢の複雑に絡み合ったもの」こそ、「物語の筋」だと考えたのです。
要するに、プロップが「すべての物語を分析し、その中にある構造を見つけよう」と研究したのに対し、ブレモンは「それだと時間が足りないので、物語ひとつひとつの、構造を見つけるためのプロセスを確立しよう」と考えたことになります。
ただ、選択肢の中から一つの行動を選ぶと、それに対する新たな選択肢(複数の結果)が生まれる、そしてまた一つの行動を選ぶと・・・というように、「機能の連鎖反応」が起こる点に関しては、ブレモンの理論もプロップの理論も同じであると言えるでしょう。
そして物語から「機能」を抽出し、その機能同士の「因果関係から物語の構造を分析する」というのがブレモンのやり方なのです。
~ロラン・バルト~
プロップの理論を受け継いだもう一人の研究者がロラン・バルトです。
バルトの理論は、比較的多くの物語に利用できる汎用性の高いものなので、現代でもジュネットの理論に並んで使用されています。
バルトの理論では「機能」は人物の行為だけに限定されたものではなく、「物語の筋を展開させるものすべて」ということになるのです。
バルトはプロップの機能をさらに細かく3つに区分しており、それぞれ、
「枢軸機能体」「触媒」「指標」となります。
まず「枢軸機能体」は、「物語を直接進める人物の行為のこと」です(正確には、バルトの理論は物語を進めていくと、人物以外の行為すべてにおいても「機能」と見なしています)。
これは、プロップの機能に一番近い意味を持っています。
バルトは「枢軸機能体」を「次の行動のための選択肢を、二つに限定し迫るという、(結果として)物語を進行させる行動」と、「その二択のどちらかを選択した場合の行動」と定義しました。
これはブレモンの理論と少し似ています。
例として「挨拶をされる」というシーンがあったとしましょう。
次の行動は「挨拶を返す」「挨拶を返さない」という二択になります。
つまりこれは、「枢軸機能体」である、と言うことが出来るのです。
続いては「触媒」です。
「触媒」は物語を進める機能ではありますが、副次的なものとして定義されています。
例として、「ケイゾク」という物語を基にした以下の文章を見てみましょう。
「遅くなってすいません!」
初日から遅刻をした新人警部補の柴田は、マフラーを取りながら係長の野々村に頭を下げて謝ります。
野々村は柴田を怒ることなく、部署のみんなに穏やかに柴田を紹介します。
「近藤と申します」
「谷口です」
と、丁寧に席まで立って、新人の柴田にあいさつをする同僚たちであったが、ただ一人・・・
「ああ、真山です。よろしく・・・」
一番後ろで座る真山と言う若い男だけが、席を立つこともなく頭だけを少し下げて、気のなさそうな挨拶をした。
その指には仕事中だというのにタバコが挟まっている。
「よろしくお願いします」
柴田は彼らに挨拶をする。
極度の方向音痴で、警視庁内で迷子になり遅刻した柴田純が、警視庁捜査一課弐係のみんなに初めて会い挨拶をするシーンです。
「初日から遅刻した新人警部補の柴田~」という、柴田と言う女性の状況を説明する記述が、その直後の「野々村は柴田の遅刻を咎める」「野々村は柴田の遅刻を咎めない」という野々村の行動を二択に迫ることへと繋がっています。
つまりこれは「枢軸機能体」と言えるでしょう。
「野々村は柴田を怒ることなく~」は「野々村は柴田の遅刻を咎めない」という選択をした「枢軸機能体」なのです。
そこからさらに3人で「挨拶をする」「挨拶をしない」と言うさらなる二択に繋がり、そして柴田の「挨拶を返す」「挨拶を返さない」の二択へと繋がりますので、これらもすべて「枢軸機能体」と言うことが出来ます。
これらに対し、「一番後ろに座る真山~」の部分はどうでしょうか?
結論から言うなら、削除してしまっても問題はありません。
例えば「頭だけを少し下げて」とありますが、真山が頭を少しだけ下げて挨拶をしなくても、物語の大筋に変化はないのです。
これが「触媒」です。
つまり「触媒」とは、「枢軸機能体の間を繋ぐ行動や展開のこと」となります。
「触媒」には装飾的な意味合いが強く、よりイメージを具体化するためには役立ちますが、例えカットしたとしても物語の展開自体に変化は起こらないため、「枢軸機能体」に比べると弱く、「副次的なもの」になるのです。
逆に言えば「枢軸機能体」とは、カットすれば「物語の筋が変わってしまうもの」となります。
最後の「指標」は、物語の筋の展開には関係なく、登場人物のキャラクター性や、物語の雰囲気、心理描写などの情報を伝えるためのものです。
例えば、真山が柴田の頭のニオイを嗅いで言うセリフがあります。
真山「お前さぁ、いっつも風呂入ってないだろ」
柴田「いや、入ってますよ」
真山「昨日は入ってないだろ。なぁ」
柴田「ゆうべはちょっと忙しかったんで・・・」
真山「おとといは?」
柴田「・・・ああ・・・」
これはお風呂に入ることを忘れるくらい捜査に没頭してしまうという、柴田の日常に触れた描写ですが、この文章は特に物語の筋を進めるものではありません。
しかし、「変人だけど応援したくなる」柴田というキャラクター性を際立たせるためには必要な描写であるし、真山との軽妙な掛け合いでも何度か使われるネタなので、作品の雰囲気づくりには大きく貢献しているのです。
仮に柴田のこうした「変人」部分をすべてカットしていくと、それはもはや「柴田純ではない」と「ケイゾク」のファンの方ならすぐに頷いてくれることでしょう。
バルトはさらにこの三つの機能を2種類に分類していますので、以下に記します。
〔動的なもの〕・・・枢軸機能体と触媒
〔静的なもの〕・・・指標
例えば展開が目まぐるしく変化したり、様々な事件に立ち向かっていったりする、エンターテイメント性の強い物語では、「動的な機能」が重視されます。
対して、物語の筋より、キャラクター性や心理描写、世界観の雰囲気を描きたい物語の場合は、「静的な機能」が重視されることになるのです。
ただしこの2つの機能は完全に分割できるものではありません。
例えば「野々村は柴田を怒ることなく~」は、「野々村は柴田を咎めない」と言う選択をしているので「枢軸機能体」だと先述しましたが、そこには、遅刻しても怒らない「野々村の優しさ」と、厳しくすることで、エリートの柴田に辞めてられたら困る、という、「野々村の保身」があります。
これはつまり「指標」の意味も含まれているということになるのです。
また、「頭だけを少し下げて」と言う真山の動作に関する「触媒」も、真山の不愛想を表現するための「指標」でもあります。
さらにバルトは、枢軸機能体のまとまりのことを「シークエンス」と名付けました。
例えば、「ケイゾク」の第一話の柴田の登場シーンを分解してみると、
「警視庁に出勤→警視庁内での迷子→遅刻の謝罪→自己紹介」
という、枢軸機能体の集合体であると分析できます。
逆に枢軸機能体を「シークエンス」と見なして、さらに細かい枢軸機能体に分解することも出来るのです。
例えばバルトは「挨拶」の「シークエンス」をこのように説明しています。
「手を差し出す→手を握る→手を離す」
上記が、枢軸機能体の集合だとしているのです。さらに小さなシークエンスは、他の小さなシークエンスと組み合わせることによって、さらに大きなシークエンスを形作ります。
柴田の初登場シーンというシークエンスは
「柴田の初登場→柴田と真山が事件を捜査→柴田と真山が犯人を逮捕」
と言うように、他のシークエンスとの組み合わせで、「第一話」と言う大きなシークエンスとなるのです。
さらに「第一話→第二話→第三話・・・」と更なるシークエンスが組み合わさり、最終的に、「ケイゾク」と言う大きな物語が誕生します。
つまりシークエンスも機能と同じで、「因果関係」により繋がっているのです。
また、バルトはシークエンスの観点から、面白い物語の作り方の一つを提唱しています。それは、「シークエンスが閉じないうちに、次の新しいシークエンスを開くこと」です。
「ケイゾク」の第一話でもこの技法が使われています。
まず「ケイゾク」と言う物語は事件を解決していく刑事物語ですから、当然「事件の解決までの流れ」が一話ごとのシークエンスとして存在しています。
しかしそれとは別に、「ケイゾク」と言う物語全体のテーマとしてのシークエンスを、第一話のところどころで登場させているのです。
その中心になるのが真山に二択を迫る枢軸機能体なのですが、まず冒頭のシーンでは「カラスを殺す」「カラスを殺さない」と言う枢軸機能体が、そして物語の中ほどでも「朝倉を観察する」「朝倉を観察しない」と言う枢軸機能体が存在します。
朝倉とは「ケイゾク」のボスキャラ的存在で、真山の妹をレイプした少年グループのリーダー格なのですが、この時点では詳細は語られておらず、真山の危険性だけが、二択を迫る枢軸機能体として、繰り返し表現されているのです。
つまりこれは第一話のシークエンスとは別のシークエンスとして、もっと詳しく言えば、「ケイゾク」と言う物語全体のシークエンス、「伏線」が張られていることになります。
「事件の捜査依頼(謎の提示)→事件の解決(答えが明かされる)」と言う一話ごとのシークエンスと、「真山は悪なのか?(謎の提示)→真山は悪ではない(答えが明かされる)」と言う、物語全体を通して解明されていくシークエンスの二重構造になっているのです。
つまり「謎の提示」と言う枢軸機能体は答えが明かされることなく放置されることになります。
部分的には解明されていくとはいえ、謎は謎を呼び最終話まで複雑にもつれていくのです。
そのことが結果として人を不安にさせ、「早く続きが知りたい」と思わせ、それが「面白い」と言う思いに繋がっていきます。
ドラマのラストに次回の予告編を流すのも、これと似たような効果を狙ったものです。
このように、バルトは物語の筋をシークエンスの集合体として分析しました。
物語の筋によって、シークエンスは柔軟にその形を変化させるのです。
例えば、群像劇である一つの行動の結果、二人の人間が全く別の行動を起こしたとします。
それはつまり「一つのシークエンスから、二つのシークエンスが生じた」と言えるでしょう。
逆に全く別の行動をしていた二人の人間が、目的のために行動を共にしたならば、「二つのシークエンスが、一つのシークエンスにまとまった」と言えるのです。
また一人の人間が、全く別の二つの目的のために行動していれば、「一人の登場人物から、二つのシークエンスが生じた」と言えます。
このように、プロップの機能を進化させ、シークエンスの概念を提唱したのが、バルトの理論です。
※長くなったのでここで一旦切ります。続いては、現代における物語の構造分析において、最も使用されているジェラール・ジュネットの理論を紹介します。
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