【これこそが小説の醍醐味!】小説ならではの三人称の書き方
こんにちは。
杞優橙佳です。
以前、一人称視点の制約と、弱点と強みについてまとめました。
一人称って、漫画や映画じゃなくて小説を書く一つの動機だと思うのですね。漫画でも映画でも一人称って表現できないと思いますから。
けれど最近、司馬遼太郎作品をたくさん読んで、三人称をつかった小説ならではの表現ができるんじゃないかと感じたので、それを紹介します。
一般的にいわれる三人称の強み
■客観的な描写ができる
第三者の視点を地の文に加えられます。
いわゆる神の視点ってやつですね。
Aが手を伸ばし、Bがそれを掴んでつなぎ、CがBの背中を駆け上がり、塀を飛び越えた。AとCの視線があう。Bを残していかなければならないことを、悟ったのか。
というように、複数の人間がどのように動いたのかを簡単に表現することができます。一人称でもA,B,Cのやり取りを描写することはできますが、自分が当事者になった場合、こんなにあっさりした記載にはならないでしょう。
例えばBの視点で書くとすると、下記のような文章になりますかね。
Aが伸ばした手を掴み、俺はCのほうをみた。
「はやく!」
Cが俺の背中を駆け上がり、塀を飛び越えた。
こちらの方はBから見た世界を書いているので、臨場感がありますね。ですがAとCがどんな表情をしているのかは、書くのが難しいです。
■全ての登場人物の心理描写ができる
さきほどの例で、
AとCの視線があう。Bを残していかなければならないことを、悟ったのか。
と書きましたが、2人の感情がさらりと書かれています。こうした複数人の感情を描写できるのは三人称の強みですね。
一人称の場合はどうしても主人公の目線で物語を書いていきますので、他のキャラクターの心理描写をするためには、主人公から見た表情の細かな変化や態度を書く必要があります。
三人称は漫画や映画でもできるよねへの反論
冒頭で、一人称の表現は漫画や映画じゃなくて小説を書く一つの動機と書きました。
では三人称に漫画や映画にできない特徴があるのでしょうか?
三人称の客観的な描写や登場人物の心理描写は、漫画や映画でも可能です。三人称の文章を絵に起こしたものこそ、漫画ですから。
※性格が悪い人の中には、漫画や映画がとれないから小説に逃げたんでしょ?なんていう人までいるようです。
しかし三人称でしかできない表現というのが、私はあると思います。
それを冒頭でご紹介した司馬遼太郎作品で気付かされました。
坂の上の雲では、作者の気持ちが地の文に溢れ出しているんですね。太平洋戦争と比べて日露戦争の日本は現実的に物事を考えられたいう見解だとか、余談だが~で始まる自分語りとか、登場人物をこきおろす鋭いツッコミとか、いつしか作者までも身近に感じてしまう書き方なんです。
映画で監督が突然ナレーションを語りだしたら、キャストが蔑ろにされすぎですし、漫画で作者が登場して説明しだしたらキャラクターをわざわざ紙面で動かす意味がないと思われかねません(吹き出しで説明し切るのって、打ち切りの時にするくらいですよね)。
つまり、作者自身を物語の語り部とする。
これは小説でしか書けない三人称の形でしょう。
例えば例を出します。
クロパトキン将軍の性格は、戦史学者よりも心理学者にとって好対象であるかもしれない。
かれはたしかに、かれ自身が望んだように、もう一度黒溝台戦を演じてみようとした。かれの幕僚はそのための作戦計画をたて、かれがそれを決定し、そして麾下の兵力を大きく移動してそれを実行すべく部署した。すべてかれ自身の意思で、かれ自身がやった。しかもこの作戦計画は決して不評判ではなく、かれの幕僚もよろこび、かれの軍司令官も賛成していたのである。
ところが、いざ行おうというときになって、気持がゆらいだ。
――ノギがどこから出てくるかわからない。
といういまにはじまったことでもない条件が懸念になりはじめた。さらには自軍のはるか広報まで秋山騎兵旅団の一部が跳梁し、交通破壊その他後方破壊をやりはじめていることが、ひどく気になった。
常識的にいえば、敵の騎兵がその程度のしごとをするのは、火事になれば消防士がはたらくのとおなじで、戦いのつねの姿なのだが、しかしクロパトキンの神経にあってはそう思えなかった。かれはにわかにこの黒溝台コースの進撃計画を捨てようとし、軍司令官をあつめてあれこれ言ってみたが、出席したすべてのひとびとが、かれが提示する作戦中止に反対であった。かれはやむなく、
「既定方針通りにやろう」ということで、会議を散会させた。
坂の上の雲7巻
この文章だけをみても、作者のクロパトキンに対する思いが見て取れます。どことなく作者がすぐ近くで身振り手振りをまじえて語っている様が思い浮かんで、親近感が湧いたのではないでしょうか。
SNS時代の三人称小説に必須かも?
もちろん実現が難しい表現の形でもあります。
作者の思いとは、思想や解釈に他ならず、それらが読者に受け入れられるかという懸念があります。また、作者が前に出すぎても没入感を阻害する要因になりかねません。
司馬遼太郎が成功したのは、淡々と進む歴史小説を書くあいまに、緩急をつける形で思いをほとばしらせたからこそ、なのかもしれません。
だとしても現在は、SNSなどを通じてファンをつくっていくことが、作家の広告戦略でもありますよね。ですので私は、作品の中で自分を出して、読者に親近感をもってもらうことをおすすめします。自分自身が読者に受け入れられるかどうか、試してみてもいいじゃないですか?
それで作者を身近に感じてもらえたらもうけものです。
まとめ
本エントリーでは、小説でしかできない三人称の書き方として、読者の思い、つまり思想や意見を地の文に書くことをご紹介しました。そうすることで作者を身近に感じてもらえる効果があるはずです。
SNSなどを通じてファンをつくっていくことが、作家の広告戦略でもある時代、一度は試してみてはいかがでしょうか。
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