創作ネタ | 心の弾力性は確実に失われるので、チャレンジするなら若いうちが良い

2020年10月26日

 久しぶりに仕事で失敗しました。関係者から「何やってるんだ」と厳しいコメントをいただいて、自分でも「何やってるんだ」と膝を殴りたくなる怒りでいっぱいになりました。

 昨日から今日にかけて16時間ほど眠り、起きている時間も後悔を重ねて、ようやく精神的に立ち直ってきました。

 失敗と叱責はいつ何時も辛いものです。ですが私もいまや30代中盤。7,8年前に失敗したときとの違いを感じましたのでシェアします。

  

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心の弾力性は確実に失われる

 まず感じたのは、心の弾力性が失われるということです。

 20代のときの私は、怒られたら一週間は凹み続けました。ですが引きずる時間は長かったけれど、やるべきことはやらなければならないという使命感に突き動かされたのか、辛くても会社へいって仕事をする気力がありました。

 その間のメンタルの動きとしては。心という粘土が、その弾力性で失敗と叱責の衝撃を緩衝してくれて、ゆっくりと粘土がもとにもどっていくように、徐々に精神が回復していく感覚でした。

 ですが30代中盤で失敗した先日の私は、心の弾力性がほぼなくなっているような感覚を受けました。
 言うなれば木の板のようなもので、ちょっとやそっとの衝撃ではびくともしないのですが、一度木の板をぶち破られると、もう会社をやめようかと思うほどに苦しむ……ほぼダメージを緩衝できない感覚でした。
 大人になると怒られるのってこんなに辛いんだ……と実感しました。

 逆に言うと、ちょっとやそっとの失敗ではびくともしない「木の板」を構築できたのはありがたいなとも感じています。
 これは20代のときに粘土を叩き続けた成果のような気もしていて……そうなると昨今の流行りである、褒めて育てる、叱らない育成に違和感を覚えます。

 もちろん小説への感想では褒めてほしいし、叱られたくないのですけどね。笑
(厳しいコメントを受け止められるだけの木の板を構築した自信はあります)

  

褒めて育てるは正しいか?

 90年代頃から「褒めて育てる」「叱らない子育て」といった教育方法がもてはやされるようになりました。『叱らない親=よい親』という考えです。そこから今では、チームマネジメントの世界でも「褒めて育てる」「叱らない育成」が謳われています。

 ですが「褒めて育てる」「叱らない育成」というフレーズだけが独り歩きして、本質を見失ってはいけないと感じます。

 フレーズの本質は、「リーダーの都合で感情的になって怒鳴ったり、叱り続けることはやめよう」という意図だったはずです。

「上司が言っているからお前もいうことを聞け!」「明日までに提出しなければ俺が怒られるんだぞ、なぜこんな低品質な資料をつくった!」と自分や会社の都合だけを押し付けない。これは大事ですが、例えばセキュリティ事故を起こした社員に対して、仕方ないなと笑ってすますような「何でも叱らない」ことが目的ではないです。

 「褒めて育てる」「叱らない育成」を謳っていても、楔を打つべき場面はあるはずです。

 犯罪へつながるような、社会的に問題がある点は叱らなければいけません。
 正解に対して遠回りをしている点についても、コストや納期の面からお客様へ迷惑をかけるのだと指導しなければいけません。何度もいって修正されないのなら、叱ることで楔を打たなければいけません。

 良いところを見つけて褒めるは必要ですが、褒めるだけでは人間は成長できません。
※第一、人から、自分の褒められたい点を褒められたことがありますか? 褒めるのは技術が必要です。見当違いな褒め方を意図的にする人間だっています。良いところがないから適当な褒め言葉をいうこともありえます。褒めることで人を図に乗らせたくないという意地悪な人間もいます。何も言われないところが自分のほんとうの強みだったりします。一番早く成長する方法は、間違いなく叱られた弱点の修正です。人は気に入らないところは忌憚なく言いますから。

  

 「褒めて育てる」「叱らない育成」といったフレーズがもてはやされるようになったのは、これまで叱るのウェイトが高すぎたので、逆の目線も必要だという社会事情によるものでしょう。
 褒めて育てるのウェイトが高くなったら、普通は次は叱るのウェイトがあがってくるはずです(ハラスメントを防ぐ法律により不可逆になろうとしていますが、どこかに歪みがくると感じます。叱らないことの弊害が見えてきたとき、ハラスメントに関する法律はどこかで緩和されると思います)。

  

大人になってから怒られたら本当にへし折れる

 こういう書き方をすると、私自身がパワハラ気質の人間だから、「褒めて育てる」「叱らない育成」に反対しているのだろうと捉えられるかもしれません。

 前提として、私は社会人になってからキレたことは、同期に対する一度だけです(一回あるんかいって感じですが、過去は変えられないので仕方ないです 笑)。

 また、上司や会社に対して意見をぶつけることはあっても、後輩や弱い立場の人を叱りつけて責任をなすりつけたりしたことは一度もありません。仕事でもプライベートでも、私の生き方は一貫して新しい考えを尊重しつつ、バランスをとっていく放心です。

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 ですので怒った経験よりも遥かに怒られる経験が多いです。今後も怒ることはあまりないでしょう。そんな私ですが、怒られることは、人生で必要なメソッドだと考えています(自分の体を大事にしろと家族から怒られた経験も含めて)。自分の弱点を知るためにも。

 

 しかしながら先日の経験でわかったのは、「大人になってから怒られたら本当にへし折れる」かもしれないということです。
 大人になってから怒られないためには、どこまでやって大丈夫なのか、境界線を探る必要があります。境界線をつきとめるまでに何度も怒られるでしょう。この怒られる作業は、ぜひ若いうちに済ませてみてください。

 若い時期は厳しい世界に身を置く……ということですね。もちろん逃げたければ逃げられる、逃げ道を用意しておくことは忘れずに。

 

 これは趣味でも同じですね。商業小説を丸パクリで小説家になろうへ投稿するとかでなければ、何をして失敗しても、心の弾力性が失敗の衝撃を緩衝してくれます。

 

褒めて育てろ、怒るなといっているのは誰か?

 ところで、褒めて育てろ、怒るなといっているのは誰でしょうか。殆どの場合、心の弾力性を失った大人かと思います。この大人は極論すれば4種類に分けられます。

①褒められて育ち満足している大人
②褒められて育ち不満な大人
③叱られて育ち満足している大人
④叱られて育ち不満な大人

 この中で、褒めて育てろ、怒るなと唱える可能性があるのは①と④の人でしょう。そして意見を一度提唱されてしまえば、③叱られて育ち満足している人が異論を唱えても、耳を傾けられることはありません。人は楽な方に流れるからです。

 ブッダの頃の戒律(不殺生、不与取、不邪淫、不妄語、不飲酒)と比べて、浄土宗の教え(南無阿弥陀仏を唱えれば極楽へ行ける)がとてもシンプルであり手軽であることに似ている気がします。少しでも楽に、幸せになりたい。これは私たちの本能なのでしょう。

 この楽、に抗うためには、法律や宗教で考え方を歪める必要があります。ユダヤ教が「学びこそが最も崇高なもの」として意識づけしてきたのもその一環ですね。

 

 楽な方に流れることは本能ですが、結果が正しいとは、必ずしも言えません。

 もちろん私個人としては楽に幸せになれるのが一番いいと思っています。油断したら惰眠を貪り、無心で動画を見、楽に流れてしまいます。個人という部分に着目してみれば、楽に幸せになれるのが最適なのです。

 しかし全体最適を考えたときにはどうでしょうか。例えば将来、「褒めて育てろ、怒るな」と言われて育った人々に、この国の経済を担う経営者や、国を守る自衛隊員を勤めてもらわなければいけません。怒られたことのない、褒められたいだけのひとたちが、失敗が当たり前のビジネスの世界や、自衛隊の規律のなかで生き、国を背負うことはできるのでしょうかね。

 部分最適は必ずしも全体最適とならない……私が作品の中で提示した資本主義的な思想の問題でもあります。そして部分最適と全体最適の調和を考えるのが、王たるリーダーの役割です。リーダーばかりを書いている私は、今後もこういったテーマに取り組んでいくと思います。

 

 以上、久しぶりに仕事で失敗し凹んでいた経験から、「褒めて育てる」に対する疑問までを語ってみました。伝えたかったことは、心の弾力性は確実に失われるので、チャレンジするなら若いうちが良いよということです。皆さんも自分の心の弾力性を信じて、厳しい環境へ向かってみてください。逃げ道を用意することを、忘れずに。

ここまで読んで頂きありがとうございました。
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