司祭の階級も貴族?宗教と貴族階級の交錯点を読み解く

中世ヨーロッパの社会は、大きく聖職者(第一身分)貴族(第二身分)、そして平民(第三身分)に分かれていました。しかし、聖職者と貴族の間には深い関係があり、ときにその境界はあいまいでした。司祭司教といった聖職者の階級の中でも、特に高位の聖職者は貴族出身であることが多く、事実上「聖職貴族」ともいうべき存在だったのです。

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聖職者と貴族の重なり

中世カトリック世界では、高位聖職者(司教・大司教など)の多くは有力貴族の家系から選ばれました。一方、地方の教区を預かる下級聖職者(司祭)には平民出身者も少なくありません。たとえばフランス革命前のフランスでは、聖職者(第一身分)は人口の0.5%ほどでしたが、そのトップ層である司教・修道院長などの高位聖職者はほぼ貴族出身で占められていました。逆に村の司祭(司教に次ぐ聖職者)は平民出身も多く、聖職者身分内部で身分格差があったのです。

こうした高位聖職者は教会人であると同時に世俗の領主でもありました。中世ドイツ(神聖ローマ帝国)では、大司教や司教が広大な教会領(聖界諸侯領)を支配し、一人の領主貴族として君臨していました。特に有名なのは、マインツ・ケルン・トリアーの三大大司教で、彼らは帝国の有力諸侯として**皇帝選出(選帝侯)**の権利まで持っていました。つまり宗教界のトップがそのまま世俗の貴族階級のトップ層にも属していたのです。

「聖職貴族」の実態

中世の高位聖職者は、封建領主として城や軍隊を持ち、時には自ら甲冑を着て戦場に立つことすらありました。当時、聖職者が武器を取ることは禁じられていませんでしたから、大司教や司教が自領を守るために騎士を率いる姿も珍しくなかったのです(後に教会法で聖職者の戦闘参加は禁止されましたが)。こうした聖職者領主は、多くの場合、地元の名門貴族の次男以下が就任するポストでもありました。長男が家督(爵位)を継ぎ、弟が教会高位に就くという形で、貴族家が聖俗両面の権力を握ったのです。このようにして誕生した**「聖職貴族」**は、身分上は聖職者ですが実態は貴族とほとんど同じような暮らしと権勢を享受していました。

また、カトリック教会の枢機卿(Cardinals)は「教会のプリンス」とも呼ばれ、各国の王侯貴族が任命される例が多く見られました。たとえばルイ13世に仕えたリシュリュー枢機卿はフランス貴族出身でしたし、近代でもイギリスの枢機卿には公爵家出身者がいます。枢機卿団自体がローマ教皇を選ぶ「選挙侯」として機能し、一種の国際的な聖職貴族ネットワークを形成していたと言えるでしょう。

宗教と貴族の境界線

以上のように、中世ヨーロッパでは宗教的ヒエラルキー(教皇-大司教-司教-司祭…)と世俗的ヒエラルキー(王-公爵-伯爵-騎士…)が交錯し、高位では両者が融合していました。しかし、すべての聖職者が貴族だったわけではありません。多くの下級司祭や修道士は平民の出身で、清貧の中で信仰に生きました。一方で、高位聖職者の中には貴族としての利益や政治的野心を追求する者もおり、時に「聖職者 vs 貴族」ではなく「貴族聖職者 vs 平民聖職者」という構図で社会問題が起きることもありました(フランス革命前夜、第三身分出身の司祭達が改革派に回った事例など。

まとめると、中世~近世のヨーロッパにおいて司祭や司教など聖職者の階級は、上層部ほど貴族階級と重なり合っていたと言えます。教会は霊的権威だけでなく世俗的権力も握っていたため、高位聖職者は名実ともに「もう一つの貴族」として君臨したのです。その交錯点を理解することで、中世社会の複雑な権力構造が見えてきます。宗教と貴族という二つのヒエラルキーは、ときに協調しときに対立しながら歴史を動かしてきたのです。

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