敵を設定するポイントは「読者が憎しみの向け先を具体的に想像できるか」
インド映画「バーフバリ」シリーズの生みの親、ラージャマウリ監督の新作「RRR」を鑑賞しました。
イギリス植民地時代のインドで、ビームとラーマという2人の主人公が自由のために闘う闘争を描いた映画です。
インド映画といえば、ぶっとんだ展開が特徴的です。今回も冒頭から1人対1万人で1人が勝利するようなシーンから始まりまsチア。このぶっ飛んだ展開はインド映画ならではです(これだけエキストラを揃えるのがすごいんですよね)。
最後は2人の主人公がスーパーマンで、最後の方はたった2人でイギリス軍を壊滅させます。ビームがラーマを肩車して森を駆け、ラーマの2丁小銃が百発百中で敵を倒すシーンは画作りがかっこよかった。あと、全編を通して薬草効きすぎです笑 立ち上がれないほどの膝の傷がエリクサー並みの速度で回復していました。
ラージャマウリ監督のアクション映画はハッタリの連続なのですが、そのハッタリを認めさせる勢いがありました。ただ、私自身は冷静に見てしまうところもあり、バーフバリほど入り込めませんでした。そして日本で闘争を描くのにファンタジーが必要ということを痛感しました。
闘争を描くのにファンタジーが必要な理由:全国民共通の敗北体験がない
日本で闘争を描くのにファンタジーが必要な理由は、全国民共通の敗北体験がないためです。
とはいえこれは日本の歴史が恵まれすぎているため、といえます。
RRRではイギリス人に虐げられるインドの先住民の人々が主人公でした。しかし私は虐げられた先住民族の人々が、侵略者であるイギリス軍を壊滅させることにそこまで爽快感を覚えませんでした。というのもRRRの物語で、先住民に対してイギリス人がいかにひどいことをしたか……という描写に尺をとっていないんですね。
なぜか?と考えたら、インド人の方々には植民地時代の記憶が共通認識としてあるからでしょう。イギリス人の悪行なんて、描かなくても十分に教育で学んでいる……だからイギリス人をぶっ飛ばすことに尺を使うのがインド映画です。
けれども日本人である私は、全国民が敗北して奴隷のように扱われた歴史も記憶もないため、それがいかに酷いかを想像できません。RRRの鑑賞者で、こういう人は多いんじゃないでしょうか。
日本の物語においては、敵は身内にするのがベターです(エヴァでネルフを壊滅させようとした自衛隊とか、コードギアスでルルーシュが結局身内を敵として戦っていることとか、どちらも結局身内との戦いがメインです)。
もし敵を外国人や宇宙人にする場合、敵の内面も描くのがベターです。敵にも敵の事情がある物語が好まれます。
外国人が日本人にむける本当の悪意を見たことがない
なぜか? その理由は日本人が「外国人が日本人にむける本当の悪意を見たことがない」ためでしょう。
そのためインド映画で、イギリス人がバッタバッタ倒されていくシーンを見ても、画作りのかっこよさは感じるけれども、思想的な爽快感は得られない。でもそれは日本人がインド映画を見る上では仕方ないと感じます。全国民共通の敗北体験がなく、全国民共通の憎しみの向け先が無い(インド人ほどイギリス人に対して憎しみを向けていない)ためです。
読者が憎しみの向け先を具体的に想像できるか?をよく考える
ここからの学びは1つです。読者が憎しみの向け先を具体的に想像できるか?をよく考えること。
もし現実世界を舞台に他国との闘争を書くのなら、日本がどこかの国に侵略されて全員が奴隷になるシーンを長い尺で書く必要があります。全国民共通の憎しみの向け先が無いなら、全国民共通の憎しみの向け先を作るところから丁寧に書く必要があるってことです。
※逆に学校でいじめっ子をぶっ倒す漫画なんかだと、そこまで丁寧に背景を書く必要はありません。なぜなら全国民が学校に通っており、憎しみの向け先の解像度が高いからです。
ぜひ物語で敵を設定するときには、考慮してみてくださいね。
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