物語の書き方 |「チェーホフの銃」を巡る大論争

2021年1月16日

 「チェーホフの銃」という理論について、Togetterで大論争が発生していました。小説や映画・アニメ中のマイノリティ属性は、この理論ではどう扱われるべきか?という話が主題でした。

 本エントリーでは、「チェーホフの銃」とは何かを事例をあげながら説明します。そして日本における「普通ではない」要素に対する反応に触れ、マイノリティ属性はどう扱われるべきか?を書いていきます。

 それでは、さっそく進めましょう。

 

チェーホフの銃とは

 アントン・チェーホフはロシアの小説家および劇作家で、短編小説の巨匠。代表作は「幸福」「かもめ」「ともしび」があります。

 チェーホフの銃とは、下記のアントン・チェーホフの言葉に由来しています。 
 「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」

 言い換えれば、物語に登場する「普通ではない」要素は、後に伏線として回収されなければならない。ということです。事例を2つ紹介しましょう。

事例①ラノベに親が描かれていない

 ラノベに親が描かれていないケースも、「チェーホフの銃」の応用と言えます。

 舞台に銃を出したらその銃を使う必要があるように、親を出すなら親を使う必要があります。親を海外などにやっている作品は「使わないなら舞台にもあげない」と、伝統的な手法に沿っていると言えます。

 

事例②アニメや映画にLGBTが出ない

 アニメや映画にLGBTが出ないケースも、「チェーホフの銃」の応用と言えます。

 LGBTを出すなら、キャラクターがLGBTであることを効果的を使う必要がある……と考え、LGBTが伏線にならないのであれば「舞台にもあげない」という、伝統的な手法に沿っていると言えます。

※ちなみに私は、キャラクターがLGBTAであることが伏線となる物語を書いたことがあります(17歳、女子高生に告白されて狼の覆面をもらった僕は、27歳でプロレスラーになります!)。LGBTを伏線にするとはどういうことか?興味のある方は読んでみてください。

 

 事例①②ともに言えることは、物語を描くのに、必要なキャラクターだけを出すということですね。今の読者は伏線に対してかなりシビアに反応しますので、「普通ではない」要素の使い方に注意が必要なのです。

 

登場した銃が発射されるだけではダメな例

 世間が、伏線に対してかなりシビアだなと感じた一例があります。

 2021年1月3日、天気の子が地上波初放映されました(《映画感想》天気の子 〜世界には愛が足りない〜)。この天気の子で登場する銃を巡って、批判が起こったことがあります。

 実際、天気の子でGoogle検索しようとすると、「天気の子 銃 いらない」という言葉がサジェスト(入力フォームに表示される別の検索ワード候補)されます。

 日本においては「登場した銃は発射されなくてはならない」だけでなく、「登場した銃は『葛藤の末に』発射されなければならない」のですね。

 日本の物語においては「普通ではない属性を出すなら、普通ではない属性を出す理由が必要だ」ということです。

 

人間は属性関係なく存在している

 では、「普通ではない」要素は後に伏線として回収されなければならない、ならば、LGBTや障害者といったマイノリティ属性はどう扱われるべきでしょうか。

 物語の伏線として使われないのであれば、余計なマイノリティ属性は除外すべき……古い物語論ではこれが真実でしょう。

 けれど2021年の物語論としては、人間は属性関係なく存在している前提に立たねばなりません。だから私は、LGBTや障害者といったマイノリティ属性も、物語に当たり前のように存在していい、と思います。

 社会的に公正・中立とされる言葉や表現を使用することで、差別・偏見を防ぐことにつながる……という考え方は尊重されるべきです。

 

 けれど私は、LGBTや障害者といったマイノリティ属性が登場しないことも許容する世界であってほしい。マイノリティ属性がいるのも、いないのも普通の世界であって欲しい。

 

マイノリティ属性を増やしすぎる弊害

 私が「マイノリティ属性がいるのも、いないのも普通の世界であって欲しい」理由は、物語を書くという活動に起因しています。

 なぜなら、わかりにくいから。

 物語を書く人々にとって、最も恐れるべきは、ポリティカル・コレクトネスの考えが主流となり、マイノリティ属性を必ず作品へ登場させるルールができることです。
 こうなるとマイノリティ属性を登場させるため、キャラクターづくりに縛りが生じます。万が一LGBTや障害者といったマイノリティ属性が登場しない場合には、理由付けが必要です。

 マイノリティ属性を絶対に登場させる/登場しないことに理由がいると、物語に余計な説明が必要になります。これが、物語をつまらなくします。昔から「作家が一番書きたいものは設定」「読者が一番読みたくないものは設定」と言われますね。

 そして何より、キャラクターの属性が増えてくると、わかりにくいですよね。男女の恋愛を書きたいのに、LGBTもあわせて登場させなきゃいけないとしたら、主題がずれそうですよね。
 また、主人公にマイノリティ属性を付与すると、感情移入を阻むかもしれません。

 もちろん映画やアニメ、ドラマでは、(物語の核心に絡まなくても)画面にマイノリティを登場させておくことで、比較的容易にマイノリティを描くことが出来ます。
 ただ小説ではそうもいかない。ですので映画やアニメ、ドラマの理屈でルールを決められると、小説界隈は大変なのです。

 

3つ以上への要素分解は人間の本能に背く

 人が男女、善悪のように物事を2つにわけるのは、そうするのが一番わかり易いからです。

 「わかる」 ことは、 「分ける」 ことあらゆる事柄は二面性を持ち、2つに分けることで理解が進むのですね。

 人間は、歴史が始まって以来、物事を2つにわけてきました。

 いかにポリティカル・コレクトネスが叫ばれていても、物事を細分化しすぎると、物事の真実がわかりにくくなり、誰も真実をわからないまま、何かと戦うことになります。

 そんな、わかりにくい物語に、人は感情移入できるでしょうか。出来ないと思います。

 わかりにくい物語は、物語の力を失わせます。

 ですので物語論においては、古い価値観と言われたとしても、LGBTや障害者といったマイノリティ属性が登場しないことも許容する世界であってほしい。それが表現の自由じゃないかな。そう感じます。

ここまで読んで頂きありがとうございました。
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