新作「氷の国の英雄」を出版しました
コロナが起こらなければ、この物語は完結していなかったと思います。この物語のテーマは『価値観の表象と同調要求』です。
コロナ禍を過ごす自分自身や、周囲の世の中を見て感じたことを物語に込めました。
英雄とは既存の価値観を打ち壊すもの
私は境界を超えろ!で、主人公アイン・スタンスラインが入学したエル・クリスタニアアカデミーの学長に下記のような言葉を述べさせました。主人公アイン・スタンスラインは「誰もが諦め、問題に取り組むことを放棄している」ことに取り組み、世界中の境界を超えてつなぎ合わせました。その意味でアインは既存の価値観を打ち壊した英雄だと考えています。
「いまや人々は、自分が望み、好むものが集まった国に住んでいる。居心地の良い閉じた世界で、趣向の似た人々との交流を楽しむにかまけ、他国との交流や情報伝播を疎かにしている。西暦4240年の世界は、各国が孤立しているのだ」
境界を超えろ!1: 世界の誕生日 LinkAuter Chronicle Xceed
「皆、それなりに幸せだが、ある種の閉塞感を感じてもいる。だが、世界の流れを変えることなど、個人にできるだろうか。いや、できるはずがない。問題は個人で取り組むには大きすぎる。誰もが諦め、問題に取り組むことを放棄している。優秀な若者よ、君はそれに取り組むというのだな? ならば私は、君の未来を見てみたい。エル・クリスタニアアカデミーへようこそ!」
同じように新作「氷の国の英雄」ではブラエサル・グリードリッヒに既存の価値観を打ち壊す役割を与えました。今読み返しても、ブラエサル・グリードリッヒが最後の巨悪を打倒す様に感動を覚えます。一番スカっとするのは、最序盤や終盤のルフタの活躍かもしれませんけどね 笑
自粛を尽くすことは不可能である
現実でも、ブラエサルに打ち壊してほしい価値観が沢山あるなあと感じる日々です。まずは「自粛」です。
もちろん私自身、基礎疾患持ちですから「自粛」することが延命に必須の人間です。
ですが全員が「自粛」という価値観の同調要求に屈してしまったら、国として成り立ちません。
例えば出生数です。2020年に国内で生まれた日本人の子どもは84万832人と、前年より2万4407人(2・8%)減って過去最少となったそうです。減少は5年連続で、政府の推計よりも3年早く84万人台に入り、婚姻件数は前年より12・3%減の52万5490組と急減しました。「自粛」ムードがこの国を支配したら、婚姻件数0件も目指せるんじゃないですか?笑
それって、いまこの瞬間の損を回避するために、将来の滅びを選んでますよね。目先の損得に支配されやすい「草食系世代」の特徴です。
20代以下の若い世代は、将来の損得までを考えているから、必死で「自粛」の価値観と戦っているのだと思います。
テレビで報道されている「悪い若者」像は決して若者のすべてではなく。9割の若者はたった一度しかない人生の時間が失わるリスクと、コロナのリスクを天秤にかけて「自粛」するかを本気で悩んでいるはずです。
その上で彼らが「自粛」しないことを選んだのなら、たぶん「自粛」しない選択肢も取れるようにする必要があるんです。
私たち上の世代が彼らを応援しなくてどうするんだか。
自己責任というおかしな価値観
もうひとつ打ち壊したいのは「自己責任」です。
「自己責任」という価値観は、日本特有の価値観です。
この言葉の発祥は金融業界でした。株取引では買った金額よりも現在の価値が下がる「元本割れ」をするケースがあります。金融業界はこの概念を説明する際、元本割れする可能性がありますので投資は「自己責任」でお願いしますと説明したのが始まりです。つまり「自己責任」の本来の意味は「投資で損失があったときの責任は、あなたにありますよ」ということで、それ以上でもそれ以下でもありません。
ですが今、この言葉の意味が広がり、貧しくなるのも、コロナにかかるのも自己責任。自己責任で不幸に見舞われた人を救う必要はない……などと、冷たい価値観が社会を覆っているように見えます。
自分で選択できないことまで自己責任なのか
本来「責任」には、「自由」の行使が伴っていました。
「責任」という言葉は英語でresponsibilityと訳されますが、そのもとはラテン語のrespondereだとされます。その本来の意味は、古代ローマにおいては法廷で訴えられた人物が、自分の行為について説明したり弁明したりすることを指しているとされます。
自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ
また、近代の市民革命によって市民が自由を獲得した際、「自由」の行使には「責任」が伴うとされました。「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は表裏、セットの概念となりました。先ほどのラテン語の意味と合わせると、「責任とは自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方です。
ですから欧米で責任(responsibility)と言った場合、他者とのコミュニケーションが前提とされます。なぜなら説明義務が生じるのは本人であることは自明ですから、改めて「自己」をつける必要がないからです。
つまり「個人の自由な選択」に、「責任」が伴うということです。これならまだ、理解ができるんですよ。ですがコロナ禍でコロナにかかることに、「個人の自由な選択」ってあったのかなあって思うんですね。
私たちはいま自由を奪われた世界で、責任だけを与えられているんじゃないかな。不自由な世界とは、常に100点の行動を取り続けないと落第する世界のことです。人間ですから常に100点を取ることなんて不可能ですよね。
ちなみに自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れの記事によれば、過去こういった不自由な世界で救いとなったのが、宗教だとのことです。ざっくりと噛み砕いて書くと。
例えばキリスト教は、常に100点を取ることが求められる世界で、減点された人間がいた場合、神が罪をかぶって減点が0になるという教えです。逆にモーセに十戒を教えた旧約聖書の神様は、減点された人間がいた場合、神がその人間を消しさり「減点された人間などおらんかったんや」という教えに見える 笑
キリスト教が信じられている国々が「加点方式」の「加点思考」になるのもわかりますね。
日本は減点をかぶってくれる神様がいないので、そろそろ人間の罪をかぶって減点を0点にする世話焼きの、お助け神を書いた小説が求められている 笑
新作「氷の国の英雄」に登場する預言者ルフタは、その意味で世話焼きの、お助け神かもしれません。彼女は物語の中でこう言います。
「予言者には、未来を見た責任がある。私は、裏切りを予見しても最後まで逃げ出さなかったイエス・キリストのようでいたい」
この台詞、カッコよすぎでしょ。
こびりつく泥との戦い
突然「鬼滅の刃」の話になりますが、栗花落カナヲちゃんを変化させるために、コイントスをした炭治郎は正解だったんですよ。
ベストセラーになった『ヤバい経済学』の著者であるシカゴ大学のスティーヴン・レヴィット教授は、自身が運営する人気サイトで、お悩み相談のコーナーを設け、そこで、「転職するか否か」「離婚するか否か」といった重大な悩みから、「ダイエットをすべきかどうか」といった重要ではなさそうな問題まで、各自がもっている悩みをサイトの訪問者に教えてもらうという実験に取り組んだ。
【出典】Levitt, S.D., 2021. Heads or Tails: The Impact of a Coin Toss on Major Life Decisions and Subsequent Happiness. Rev. Econ. Stud. 88, 378–405.
上記の実験の参加者はまず、どのような悩みをもっているかを答えます。その後、コンピューターでのコイントス占いをして、「現状を維持する」か「変化する」が50%ずつの確率で出る占いの結果をもらいます。実験では、さらにその2ヶ月後と6ヶ月後に、どのような意思決定をしたのか、幸福度はどうか、その意思決定が正しかったと思うかどうか、といった質問します。
すると、回答の決め方がコイントスということがわかっていても、50%以上の人が転職や離婚といった重要な意思決定でもコイントスに従ったそうです。
つまり50%以上が自分の意思ではなく、偶然による「現状維持」か「変化」を決めた。栗花落カナヲちゃんのようにです。
コイントスに従って自分の選択を変えていますから、被験者に現状維持バイアスは発生していません。
その前提で分析してみると、なんと変化を選んだ人の方が、現状維持を選んだ人よりも幸福度が高く、よりよい選択だったと考えていることが多かった。
つまり、よりよい選択をしたいなら、変化を選ぶべきだということです。
このエピソードから何を言いたいかというと、人は現状維持を選びがちだということです。既存の価値観がこびりつく泥のようになってしまい、そこから変化できない人がいっぱいいます。それが幸せを奪っていることもあります。
私たちにも様々な価値観がこびりついています。「氷の国の英雄」はそんなこびりつく泥との戦いを描いた作品となります。ぜひ、この泥だらけの時代にこそ読んでほしい一冊です。
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