『暇と退屈の倫理学』を読んで:退屈を創作にどう活かすか
『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎 著)を読んだ後、退屈について新たな視点を得ることができました。本書は「退屈」や「暇(ひま)」という一見ネガティブに思える感情を哲学的に掘り下げ、人間にとっての意味を探っています。ライトな哲学好きの方や小説家志望の方にとっても、退屈の捉え方を見直すことで創作へのヒントが得られるかもしれません。この記事では、本書の議論を振り返りつつ、退屈を創作に活かす方法や作家の心の持ち方について考えてみます。
退屈とは「欠如」の感覚:人間に本質的な経験
まず本書で強調されるのは、退屈とは何かが欠けているような感覚だという点です。暇なとき、私たちはなんとなく心にぽっかり穴があいたような気分になることがあります。それは、まさに「何か大切なものが不足している」という欠如感です。この感覚は実は人間にとって極めて本質的なものだと國分さんは述べています。
哲学者ハイデッガーの議論を引き合いに、本書は退屈を「人間(現存在)の深淵において霧のように現れては消える根本的な気分」だと紹介しています 。言い換えれば、退屈こそ人間にとって根源的で避けられない経験なのです。「なんとなく退屈だ」と感じるとき、私たちは自分の置かれた状況に何らかの欠如を感じています。それは時間が止まったように感じられ、心に空虚(空っぽなもの)が広がる感覚です 。誰しもこの不思議な感覚を味わったことがあるでしょう。
興味深いのは、人間だけが退屈すると言える点です。國分さんによれば、人間は自由であるがゆえに退屈するのだといいます 。動物は本能や目先の刺激に常に囚われて生きており、暇を持て余すことがありません。一方、人間は目の前に刺激が無くなると、自分の可能性や世界の広がりを意識してしまい、「何をしてよいか分からない」という状態に陥ります。これは人間だけが持つ能力であり苦しみでもあるのです。
つまり退屈とは、人間である証拠とも言えるでしょう。何かが欠けていると感じるそのモヤモヤは、実は創造や哲学が生まれる出発点でもあります。退屈そのものを忌避するのではなく、「人間なら誰もが持つ根源的な感情なんだ」と捉えることで、私たちは退屈に対して少し構えを解くことができるかもしれません。
娯楽と退屈:埋め合わせとしての気晴らしと楽しむ姿勢
人は退屈を嫌うあまり、しばしば娯楽によってその穴埋めをしようとします。本書でもパスカルやニーチェといった哲学者の言葉を引用しながら、人間がいかに退屈に耐えられず気晴らしを求めるかが論じられています。たとえばパスカルは「人間は退屈にたえられないから気晴らしを求めるだけなのに、自分が追い求めるものの中に本当の幸福があると思い込んでいる」と指摘しました 。私たちは暇になるとついスマホやテレビに手を伸ばしがちです。それは退屈の穴を埋め、一時的にでも充足感を得たいからでしょう。
しかし國分さんは、こうした娯楽をただ「悪いものだ」と否定してしまうべきではないとも強調しています。確かに娯楽は退屈を一時的に紛らわすものですが、それ自体を上手に楽しむこともまた大切だというのです。ただ漫然と時間つぶしをするのではなく、娯楽や余暇をきちんと楽しむ姿勢を持つべきだと説いています。
國分さんは本書の結論部分で、「消費ではなく浪費としての贅沢」を取り戻すことの重要性に触れています 。ここでいう「浪費」とは無駄遣いという意味ではなく、「必要以上のものをあえて受け取り味わう豊かさ」のことです。たとえば、美味しいものを心ゆくまで食べる、お気に入りの音楽や映画に浸る、といった具合に、目の前の娯楽を存分に味わうことが大事だといいます。それこそが人生をバラで飾るような「贅沢」であり、退屈を単にごまかすのでなく積極的に活用する道でもあるのです 。
また本書では、現代の消費社会において人々が「モノそのもの」ではなく「モノに付与された観念(ブランドや流行)」を消費し続けるために退屈が止まらないという指摘もされています 。新しい服、最新のガジェット、次々と更新されるSNS――こうした終わりのない消費的娯楽は、一瞬退屈を紛らわせてもすぐ次の退屈を生みます。だからこそ國分さんは、**本当の意味で豊かさを感じられる「楽しみ方」**を提案しているのでしょう。お気に入りの本を繰り返し読んだり、ゆっくりお茶を味わったりといった日常の小さな娯楽を丁寧に楽しむことで、私たちは「退屈に振り回されない充実感」を得られるのではないでしょうか。
要するに、娯楽は退屈を一時的に埋める「悪者」ではありません。むしろ退屈と上手につきあうためのパートナーです。國分さんのメッセージは、娯楽から逃れるのではなく正面から楽しむ術を身につけようということなのでしょう。
退屈を創作に活かす:アイデアの源としての暇
小説家志望の皆さんにとって、退屈は敵ではなくむしろ創作の味方かもしれません。國分さんの議論を踏まえると、退屈な状態というのは決して「ムダな時間」ではなく、新しい何かを生み出すための余白だと考えられます。
人類の歴史を振り返っても、退屈が創造の原動力になった例があります。國分さんは本書で、人類が狩猟採集の遊動生活から定住生活へ移行したとき初めて「退屈」が生まれ、それを紛らわすために高度な工芸技術や芸術・宗教が発展したと述べています 。常に移動していた頃は環境への適応に追われて暇がなく退屈しなかった人類が、定住により時間と余裕を得た結果、「何か面白いことをしよう」と新たな創意工夫を始めたのです。言い換えれば、退屈こそが人間に発明や発見を促してきたとも言えるでしょう 。
現代でも、「退屈なときほど良いアイデアが浮かぶ」という話はよく耳にします。実際、心理学の研究でも退屈な時間が創造性を高めることが示唆されています。ある実験では、単調な作業(電話帳を書き写す)をした後の被験者の方が、何もしなかった被験者よりも発想力テストで多くのアイデアを出せたそうです 。研究者は、退屈な時間は脳にとって創造力のガソリンを補給する「ピットストップ」のような役割を果たしていると指摘しています 。退屈でぼんやりしている間、脳は自由に漫然と思考を飛ばし、新しい神経的なつながりを形成しやすくなるのです 。この状態はまさにクリエイティブなプロセスには欠かせない時間だと言えるでしょう。
そのため、創作者にとっては積極的に暇を作ることが有益かもしれません。四六時中スマホや娯楽で埋め尽くすのではなく、あえて何もしない時間を持つことで、脳に「空白の余地」を与えるのです。國分さんの指摘になぞらえれば、暇や退屈と「どう向き合うか」という問いは自分自身への問いでもあります 。常に刺激を追い求める生活から一歩離れて、静かに散歩をしたり、窓の外を眺めたりする時間を持つと、ふと物語の着想が浮かぶかもしれません。実際、創造的な人々の中には孤独で退屈な時間を怖れず、自分の頭の中でアイデアを紡ぐこと自体を楽しんでいる人もいます。皆さんもぜひ、**「暇を持て余す贅沢」**を試してみてはいかがでしょうか。スマホをポケットにしまい、何もしない時間を受け入れてみるのです 。退屈と上手につきあうことは、創作におけるひらめきの種を育てる土壌になるでしょう。
物語と退屈:ストーリーにおける「間」の効果
創作においては、退屈そのものを物語の中で活かすという発想もあります。小説や映画でも、ずっとアクションや事件が起こり続ける作品ばかりではありません。ときには登場人物の単調な日常や静かな時間を描写することで、作品にリアリティやメリハリを与えることができます。
読者にとって「何も起こらない場面」は一見退屈に感じられるかもしれません。しかし、その静けさや単調さは物語における大事な“間”になることがあります。たとえば主人公が誰もいない家でただコーヒーを淹れて飲むシーン。一見ストーリーの進展には関係ない退屈な描写ですが、そこで読者は主人公の内面に思いを馳せたり、次に何か起こるのではという予感と緊張感を高めたりします。ゆったりとした日常描写があるからこそ、物語に起伏が生まれ、クライマックスの輝きが増すのです。
國分さんの言葉を借りれば、退屈と気晴らし(楽しいこと)が入り交じった生活こそ人間らしい生であるといいます 。物語の世界も同じで、平凡で退屈な場面と刺激的で楽しい場面がバランスよく混ざり合っている方が、私たち人間の現実に近く共感しやすいでしょう。ずっと刺激的なシーンばかりの作品はジェットコースターのようで最初は面白くても、読者は次第に疲れてしまうかもしれません。一方、あえて「退屈な瞬間」を物語に織り交ぜることで、読者に登場人物の生活感を伝え、物語に厚みと深みを持たせることができます。
例えば日常を淡々と描く「スローライフ」的な小説や、静かな情景描写が印象に残る文学作品があります。それらは派手な事件が少なく、一部の読者には退屈に映るかもしれません。しかしその静かな部分があるおかげで、読後に心にじんわりと余韻が残ったり、登場人物の心情がよりリアルに迫ってきたりするのです。退屈な場面も含めて物語だと考えると、創作者は描写の幅がぐっと広がります。日常の退屈さや暇なひとときを丁寧に描くことで、読者は「自分たちの現実と地続きの世界」を感じ取り、物語に没入できるでしょう。
また、創作のプロセスにおいても「退屈なルーティン」を味方につける作家は多いようです。毎日決まった時間に決まった場所で執筆するという一見退屈な習慣が、かえって創造力を支えている場合もあります。単調な繰り返しの中でアイデアが熟成し、作品の構想が少しずつ形作られていくこともあるのです。派手さはなくとも、コツコツとした“暇な時間”の積み重ねが名作を生む土台になるかもしれません。
おわりに:退屈とともに歩む豊かな創作生活
『暇と退屈の倫理学』を通じて学んだのは、退屈は単なる暇つぶしに悩まされる消極的な時間ではなく、私たち人間に本質的な意味を持つ時間だということです。退屈とは何かが欠けている感覚ではありますが、それは裏を返せば新しい何かを求める心の現れでもあります。國分さんの言葉や哲学者たちの考察から、退屈は私たちを苦しめる厄介者であると同時に、私たちに自由と創造の可能性を突きつける教師のような存在だと感じました。
創作に携わる者にとって、退屈や暇とどう向き合うかは大きなテーマです。常に刺激を追い求めるのではなく、ときには立ち止まって何も起こらない時間を受け入れてみる。そこで湧き上がるもどかしさや欠如感こそが、新たな物語の種になるかもしれません。娯楽に逃げる自分を責めるのではなく、しっかり楽しんだ上で「さて、自分は何に退屈していたのだろう?」と見つめ直す。そんな風に退屈と付き合えば、心は以前より豊かに、創作への意欲も高まるのではないでしょうか。
國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』は難解な哲学書ではなく、親しみやすい語り口で綴られています。本書を手に取れば、退屈な時間の見方が少し変わり、日常や創作に対して前向きなヒントを得られるでしょう。退屈を恐れず、退屈を楽しみ、退屈を創作の糧にする――そんな心の持ち方で、豊かな創作生活を歩んでみませんか。退屈ともうまく付き合いながら、自分だけの物語を紡いでいきましょう。
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