燻製ニシンの虚偽(レッドヘリング)とは?|チェーホフの銃を逆手に取るミスリードの技法

2022年11月13日

前回の記事では、チェーホフの銃——「登場させたものは使え」という原則を解説しました。では、そのルールをあえて破ったらどうなるでしょうか?

じつは「あえてルールを破る」技法が確立されています。それが 燻製ニシンの虚偽(レッドヘリング) です。

チェーホフの銃が「置いた銃は使え」なら、燻製ニシンの虚偽は「使わない銃をわざと置いて読者の目を逸らせ」。この2つは表裏一体の関係にあり、組み合わせることでミステリーやサスペンスの奥行きが一気に深まります。


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燻製ニシンの虚偽とは

「燻製ニシンの虚偽」は英語で Red Herring(レッドヘリング)と呼ばれます。

語源は、猟犬の訓練に由来するとされています。猟犬が獲物の匂いを追跡する訓練で、匂いの強い燻製ニシンを使って犬を惑わせ、正しい匂いに集中する力を鍛えました。ここから転じて、「匂いの強い偽の手がかりで本筋から目を逸らさせる手法」を指すようになったのです。

物語における燻製ニシンの虚偽とは、読者を意図的にミスリードするために、物語上の意味を持たない(あるいは本筋とは別の意味しか持たない)要素をわざと目立たせる技法 です。


チェーホフの銃との対比

チェーホフの銃と燻製ニシンの虚偽を並べると、正反対の構造が見えてきます。

チェーホフの銃燻製ニシンの虚偽
原則登場させたものは使え使わないものをあえて登場させろ
読者への効果期待通りに回収される快感期待を裏切ることで生まれる驚き
目的物語の焦点を絞る物語の焦点をわざとぼかす
リスク要素が多すぎるとノイズになるミスリードがバレると白ける

重要なのは、この2つの技法は対立するものではなく 補完し合うもの だということです。ミステリーの名作は、チェーホフの銃で本物の伏線をきっちり回収しつつ、燻製ニシンで読者の目を別方向に向けさせています。本物の手がかりの横に偽の手がかりが並んでいるからこそ、読者は「どっちが本物だ?」と推理する楽しみを得られるのです。


燻製ニシンの虚偽の具体例

例1:怪しい人物の配置

ミステリー小説で、序盤から不審な行動をとるキャラクターが登場します。物陰でスマートフォンを操作している、夜中に一人で外出する、嘘をついているような素振りを見せる。読者は当然「このキャラが犯人だ」と推測します。

しかし真相が明かされると、このキャラの不審行動にはまったく別の理由がありました。恋人にサプライズを準備していたとか、転職活動を秘密にしていたとか。一方で、序盤から善良に見えていた別のキャラクターが本物の犯人だったのです。

ここでの「怪しく見えたキャラクター」が燻製ニシンです。

例2:薬屋のひとりごと

『薬屋のひとりごと』は、後宮を舞台にしたミステリーの要素が強い作品です。猫猫(マオマオ)が事件を解決するたびに、読者の目を逸らすための偽の手がかりが巧みに配置されています。毒殺事件の容疑者として複数の人物が浮かび上がりますが、真犯人は意外な人物——この構造は燻製ニシンの典型です。

例3:名探偵コナンの構造

『名探偵コナン』のエピソードの多くは、燻製ニシンの虚偽の教科書です。事件が起きるたびに容疑者が3〜4人提示され、それぞれに動機と手段が示されます。読者は「この人が犯人だ」と推理しますが、チェーホフの銃(本物の証拠)と燻製ニシン(偽の手がかり)が巧みに混ぜられているため、真相は最後まで読まないとわからない構造になっています。


燻製ニシンの虚偽を書く3つのルール

ルール1:偽の手がかりにも「もっともらしい理由」を持たせる

燻製ニシンが「なんの意味もないただのノイズ」だと読者は怒ります。「なんだ、あの描写は無意味だったのか」——これでは読者の信頼を失います。

偽の手がかりには、本筋とは別の文脈で意味がある理由を用意してください。先の例で言えば、怪しいキャラには「恋人へのサプライズ準備」という独立した物語がありました。燻製ニシンとして機能しつつ、キャラクターの人間味も描ける——これが理想の燻製ニシンです。

ルール2:本物の手がかりと偽の手がかりを同じ密度で書く

本物の伏線を薄く書いて、偽の手がかりだけ濃く書くと、読者が「手がかりが消えた=これは偽物だ」と見抜いてしまいます。大事なのは 均等な密度 です。

本物の手がかりも偽の手がかりも、同じくらいの情報量、同じくらいの頻度で読者に提示する。そうすることで読者は「どちらが本物か」を最後まで判断できなくなります。

ルール3:真相解明後に「なるほど」と言わせる

燻製ニシンが最も輝くのは、読者が騙されたあとです。「ああ、確かにあの人が犯人だった手がかりは最初から出ていた。自分は燻製ニシンに引っかかっていたんだ」——この「やられた!」感が、読者にとって最高の読後体験になります。

逆に言えば、真相が明かされたとき「言われてみれば手がかりがなかった」と感じさせてはいけません。チェーホフの銃(本物の伏線)はきちんと配置しつつ、燻製ニシンでその存在をカモフラージュする。この二層構造が完成して初めてミスリードは成功します。


ミステリー以外での活用法

燻製ニシンの虚偽はミステリー専用の技法ではありません。あらゆるジャンルで活用できます。

ジャンル活用例
ファンタジー魔王の正体について偽のヒントを散りばめ、真の黒幕を隠す
恋愛ヒロインが好きな相手を偽のエピソードで誤認させ、告白シーンで驚かせる
バトル敵の能力について偽の情報を流し、主人公の対策を読者と一緒に外させる
日常系登場人物の過去について偽の伏線を張り、実は全然違う理由だったと明かす

Web小説で特に有効なのは、「章末の引き」に燻製ニシンを使う方法です。章の最後に意味深な描写を入れて読者を誤った方向に推測させ、次の章で「実はそうじゃなかった」と明かす。読者は「やられた」と感じつつ、次の章も読まずにいられなくなります。


まとめ

燻製ニシンの虚偽(レッドヘリング)は、チェーホフの銃の原則を逆手に取る技法です。

チェーホフの銃が「意味のないものを排除せよ」と教えるのに対し、燻製ニシンは「意味のなさそうなものをあえて配置して読者の目を逸らせ」と教えます。

この2つを組み合わせることで、読者は「何が本物の手がかりで、何が偽物かわからない」という最高の推理体験を味わえます。ミステリーに限らず、あらゆるジャンルで読者の予測を裏切る武器として使えますので、ぜひ試してみてください。

チェーホフの銃の本来の原則と論争については、こちらで詳しく解説しています。
チェーホフの銃とは?

伏線の張り方と回収テクニックの基本はこちらです。
伏線と布石の違い

叙述トリックという「読者を語りでだます」技法もあわせてどうぞ。
叙述トリックとは?

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