燻製ニシンの虚偽(レッドヘリング)とは?|チェーホフの銃を逆手に取るミスリードの技法
前回の記事では、チェーホフの銃——「登場させたものは使え」という原則を解説しました。では、そのルールをあえて破ったらどうなるでしょうか?
じつは「あえてルールを破る」技法が確立されています。それが 燻製ニシンの虚偽(レッドヘリング) です。
チェーホフの銃が「置いた銃は使え」なら、燻製ニシンの虚偽は「使わない銃をわざと置いて読者の目を逸らせ」。この2つは表裏一体の関係にあり、組み合わせることでミステリーやサスペンスの奥行きが一気に深まります。
燻製ニシンの虚偽とは
「燻製ニシンの虚偽」は英語で Red Herring(レッドヘリング)と呼ばれます。
語源は、猟犬の訓練に由来するとされています。猟犬が獲物の匂いを追跡する訓練で、匂いの強い燻製ニシンを使って犬を惑わせ、正しい匂いに集中する力を鍛えました。ここから転じて、「匂いの強い偽の手がかりで本筋から目を逸らさせる手法」を指すようになったのです。
物語における燻製ニシンの虚偽とは、読者を意図的にミスリードするために、物語上の意味を持たない(あるいは本筋とは別の意味しか持たない)要素をわざと目立たせる技法 です。
チェーホフの銃との対比
チェーホフの銃と燻製ニシンの虚偽を並べると、正反対の構造が見えてきます。
| チェーホフの銃 | 燻製ニシンの虚偽 | |
|---|---|---|
| 原則 | 登場させたものは使え | 使わないものをあえて登場させろ |
| 読者への効果 | 期待通りに回収される快感 | 期待を裏切ることで生まれる驚き |
| 目的 | 物語の焦点を絞る | 物語の焦点をわざとぼかす |
| リスク | 要素が多すぎるとノイズになる | ミスリードがバレると白ける |
重要なのは、この2つの技法は対立するものではなく 補完し合うもの だということです。ミステリーの名作は、チェーホフの銃で本物の伏線をきっちり回収しつつ、燻製ニシンで読者の目を別方向に向けさせています。本物の手がかりの横に偽の手がかりが並んでいるからこそ、読者は「どっちが本物だ?」と推理する楽しみを得られるのです。
燻製ニシンの虚偽の具体例
例1:怪しい人物の配置
ミステリー小説で、序盤から不審な行動をとるキャラクターが登場します。物陰でスマートフォンを操作している、夜中に一人で外出する、嘘をついているような素振りを見せる。読者は当然「このキャラが犯人だ」と推測します。
しかし真相が明かされると、このキャラの不審行動にはまったく別の理由がありました。恋人にサプライズを準備していたとか、転職活動を秘密にしていたとか。一方で、序盤から善良に見えていた別のキャラクターが本物の犯人だったのです。
ここでの「怪しく見えたキャラクター」が燻製ニシンです。
例2:薬屋のひとりごと
『薬屋のひとりごと』は、後宮を舞台にしたミステリーの要素が強い作品です。猫猫(マオマオ)が事件を解決するたびに、読者の目を逸らすための偽の手がかりが巧みに配置されています。毒殺事件の容疑者として複数の人物が浮かび上がりますが、真犯人は意外な人物——この構造は燻製ニシンの典型です。
例3:名探偵コナンの構造
『名探偵コナン』のエピソードの多くは、燻製ニシンの虚偽の教科書です。事件が起きるたびに容疑者が3〜4人提示され、それぞれに動機と手段が示されます。読者は「この人が犯人だ」と推理しますが、チェーホフの銃(本物の証拠)と燻製ニシン(偽の手がかり)が巧みに混ぜられているため、真相は最後まで読まないとわからない構造になっています。
燻製ニシンの虚偽を書く3つのルール
ルール1:偽の手がかりにも「もっともらしい理由」を持たせる
燻製ニシンが「なんの意味もないただのノイズ」だと読者は怒ります。「なんだ、あの描写は無意味だったのか」——これでは読者の信頼を失います。
偽の手がかりには、本筋とは別の文脈で意味がある理由を用意してください。先の例で言えば、怪しいキャラには「恋人へのサプライズ準備」という独立した物語がありました。燻製ニシンとして機能しつつ、キャラクターの人間味も描ける——これが理想の燻製ニシンです。
ルール2:本物の手がかりと偽の手がかりを同じ密度で書く
本物の伏線を薄く書いて、偽の手がかりだけ濃く書くと、読者が「手がかりが消えた=これは偽物だ」と見抜いてしまいます。大事なのは 均等な密度 です。
本物の手がかりも偽の手がかりも、同じくらいの情報量、同じくらいの頻度で読者に提示する。そうすることで読者は「どちらが本物か」を最後まで判断できなくなります。
ルール3:真相解明後に「なるほど」と言わせる
燻製ニシンが最も輝くのは、読者が騙されたあとです。「ああ、確かにあの人が犯人だった手がかりは最初から出ていた。自分は燻製ニシンに引っかかっていたんだ」——この「やられた!」感が、読者にとって最高の読後体験になります。
逆に言えば、真相が明かされたとき「言われてみれば手がかりがなかった」と感じさせてはいけません。チェーホフの銃(本物の伏線)はきちんと配置しつつ、燻製ニシンでその存在をカモフラージュする。この二層構造が完成して初めてミスリードは成功します。
ミステリー以外での活用法
燻製ニシンの虚偽はミステリー専用の技法ではありません。あらゆるジャンルで活用できます。
| ジャンル | 活用例 |
|---|---|
| ファンタジー | 魔王の正体について偽のヒントを散りばめ、真の黒幕を隠す |
| 恋愛 | ヒロインが好きな相手を偽のエピソードで誤認させ、告白シーンで驚かせる |
| バトル | 敵の能力について偽の情報を流し、主人公の対策を読者と一緒に外させる |
| 日常系 | 登場人物の過去について偽の伏線を張り、実は全然違う理由だったと明かす |
Web小説で特に有効なのは、「章末の引き」に燻製ニシンを使う方法です。章の最後に意味深な描写を入れて読者を誤った方向に推測させ、次の章で「実はそうじゃなかった」と明かす。読者は「やられた」と感じつつ、次の章も読まずにいられなくなります。
まとめ
燻製ニシンの虚偽(レッドヘリング)は、チェーホフの銃の原則を逆手に取る技法です。
チェーホフの銃が「意味のないものを排除せよ」と教えるのに対し、燻製ニシンは「意味のなさそうなものをあえて配置して読者の目を逸らせ」と教えます。
この2つを組み合わせることで、読者は「何が本物の手がかりで、何が偽物かわからない」という最高の推理体験を味わえます。ミステリーに限らず、あらゆるジャンルで読者の予測を裏切る武器として使えますので、ぜひ試してみてください。
チェーホフの銃の本来の原則と論争については、こちらで詳しく解説しています。
→ チェーホフの銃とは?
伏線の張り方と回収テクニックの基本はこちらです。
→ 伏線と布石の違い
叙述トリックという「読者を語りでだます」技法もあわせてどうぞ。
→ 叙述トリックとは?