【劇的な展開不要論】梶井基次郎の「檸檬」に学ぶ、感情の変化が物語

2020年9月16日

 梶井基次郎の「檸檬」という作品があります。

 病におかされ鬱屈とした主人公が、寺町通の果物屋で購入した檸檬を触ったり、嗅いだり、重さを感じたりしながら、平常避けていた丸善に入ってイタズラする……という話なのですが、夢中になって読めてしまいます。

青空文庫 檸檬

 なぜこの小説が読めてしまうのか……それを考えたときに、主人公の感情が揺れ動いているからではないかと気づきました。

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檸檬の感情曲線

 檸檬の各シーンと、その際の感情を下記に書き表しました。
※すでに著作権の切れた作品ですので、かなり長い引用をしています。長文を読むのが辛い方は、スクロールしていただければグラフが出てきますので、そちらを御覧ください。

鬱屈

 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。

虚無

 何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。

空想

 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

好意

 私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆った。
 それからまた、びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄れた私に蘇えってくる故だろうか、まったくあの味には幽かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。

冷静

 察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ということが必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚びて来るもの。――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。
(中略)

幸福

 その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。

快い

 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。

元気

 私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が断れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……

幸福

 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を闊歩した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。(中略)
 ――つまりはこの重さなんだな。――
 その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。

強気

 どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。

憂鬱

 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。(中略)

興奮

「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
(中略)

ワクワク

 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。

 ここまでの檸檬の感情曲線を書くとしたら、下記になるでしょう。

檸檬の感情曲線

 しっかりと心の動きがありますね。

劇的な展開をつくらなくてもいい

 この檸檬の例からわかることは、劇的な展開をつくらなくても、感情の変化が物語になるということです。

 実はこの感情の変化……一人称というスタイルをつかえる小説で、表現しやすいものです。
※もちろんアニメや漫画でも、檸檬を触って幸せだとか興奮してきたとかを表情であらわすことはできそうですね。ですが、どういう理由で表情が変わったのか……までは説明できませんので、見ている人はなんでこの表情しているんだろうと疑問に思うでしょう。

 なぜあなたはアニメでも漫画でもなく、小説を書いているの?と聞かれた時、「感情の変化という物語を書きたいから」と答えられたらカッコいいですね。

感情の変化が物語と考えると、感情曲線の見方が変わる

 以前、感情曲線に関するエントリーを書きました。

※ちなみに今回とりあげた檸檬は、6パターンの感情曲線のうち、成功型か感動型に見えます。

感情曲線6パターンと物語の類型12パターン。どう活用したらいいの?活用方法も伝えます。

 私は上記のエントリーを書いていたとき、物語を組み立てるときには、展開(イベントや達成すべき事項)が先にあって、それをこなしていくとキャラクターの感情が自然と感情曲線のどれかに当てはまるのだろうと考えていました。

 しかしながら「感情の変化が物語になる」と考えると、別の考え方もでてきます。まず主人公の感情をどう動かすかを考えて、それにイベントを当てはめていくという考え方です。

 感情の動きに、イベントをあわせる形ですね。

 例えば、今回とりあげた檸檬の感情曲線を元に別の物語をつくることだってできると思います。

『借金を背負って鬱屈としている主人公が、南の島に行くよう空想をしていると、目の前に宝くじが落ちていて、調べてみたら1000万円あたっていることがわかり幸せの絶頂へ。強気になって借金取りの事務所へ自慢にいったら、宝くじをとりあげられて再び憂鬱……、手元に残った300円で再び宝くじを買って、また当たったら南の島に行こうとワクワクしながら終わる……』

 みたいな感じ。

 自分の好きな作品の感情の変化を分析することで、好きな作品と似たような読後感の物語を紡げる……。だとするとこれってとても魅力的な発見ではないでしょうか。よければ試してみてくださいな。

ここまで読んで頂きありがとうございました。
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