【映画×創作】劇場版 呪術廻戦 0——「純愛だよ」が突きつけた、愛とエゴの境界線
2021年の映画・アニメ ランキング 2位
2021年のアニメ映画ランキング第2位は『劇場版 呪術廻戦 0』です。原作の前日譚にあたる本作は、TVアニメ本編を見ていない人でもすんなり入れる構造になっていました。しかし「入りやすい」からといって「軽い」わけではありません。むしろ呪術廻戦シリーズ全体を通じても、最も深い問いを投げかけている作品だと感じています。
今回はその問いの正体を、創作者の視点から掘り下げてみます。
「呪い」と「愛」を等号で結んだ発明
本作の核となる設定は非常にシンプルです。主人公・乙骨憂太の幼馴染である祈本里香が死後も呪霊として彼のそばにい続ける、というものです。「愛する人が死んでも離れない」という設定は、ホラーにもロマンスにも転がせるものですが、本作はそのどちらとも少し違います。
芥見下々先生が秀逸なのは、この現象を「呪い」というシステムの中に組み込んだ点です。呪術廻戦の世界では、負の感情がエネルギーになります。つまり、愛が強すぎて手放せないとき、それは呪いと同じ構造を持つということです。
「愛と呪いは紙一重」というテーマ自体は創作の世界では珍しくありません。ですが、それを少年漫画のバトルシステムに内蔵させた手腕は見事としか言いようがないです。設定とテーマが完全に一体化しているからこそ、説教臭くならずにメッセージが伝わるのでしょう。
ここでもう一歩踏み込んで考えてみます。呪術廻戦の世界では「呪力=負の感情」と定義されていますが、里香の呪いは「愛情」から生まれています。これは設定上の矛盾でしょうか。私はそうではないと考えます。むしろ芥見先生は「愛情の中に含まれる執着や独占欲は、本質的に負の感情と同じ構造を持つ」ということを設定レベルで語っているのです。愛と執着の境界線はどこにあるのか。この問いに対して、設定そのものが回答になっている。テーマと世界観設計が完全に融合した極めて高度な設計であり、「バトル漫画のパワーシステムにテーマを組み込む」お手本として研究する価値があります。
乙骨憂太はなぜ魅力的なのか——3つの仮説を比較する
乙骨憂太というキャラクターの人気は非常に高いです。なぜここまで支持されるのか、仮説を3つ並べて検討してみましょう。
仮説1:「弱者が最強になる」カタルシス。これは少年漫画の王道パターンです。いじめられていた少年が、実は最強の力を持っていた。確かにこの要素はありますが、これだけなら他の作品でも見られます。
仮説2:「ダークヒーロー」としての魅力。里香という呪霊を従えるビジュアルは確かにダークで格好いいです。ですがダークヒーロー路線ならば、伏黒恵や虎杖悠仁のほうがよほど闇を抱えています。
仮説3:「動機が徹底的にプライベート」であること。私はこの3つ目が最も重要ではないかと考えています。乙骨は世界を救おうとしていません。呪術師の使命に燃えているわけでもない。「里香ちゃんの呪いを解きたい」「自分が生きていてもいいのか知りたい」という、極めて個人的な理由で戦っているのです。
「失礼だな、純愛だよ」という名台詞が多くのファンの心を掴んだのは、この言葉が「世界の敵と戦う崇高な理由」ではなく、「たった一人を愛した結果こうなった」という開き直りだったからではないでしょうか。
この構造を別の角度から見ると、面白いことがわかります。令和の少年漫画の主人公たちは、意外と「世界を救いたい」とは言いません。炭治郎は「禰豆子を人間に戻したい」、虎杖は「正しい死の在り方」を求め、デンジは「普通の生活がしたい」。動機がどんどん個人的になっている。これは読者の感覚が「大きな物語」よりも「私的な感情のリアリティ」を求めるように変化したことの反映ではないでしょうか。乙骨憂太はその流れの中で最も純粋な結晶のような存在だったのだと思います。
夏油傑という「正しすぎるヴィラン」の怖さ
本作のヴィラン・夏油傑についても掘り下げてみましょう。彼の怖さは「論理的に正しい」ところにあります。
非術師を守るために呪霊と戦い続ける呪術師たち。しかし呪霊を生み出しているのは非術師の負の感情です。非術師を排除すれば呪霊は生まれない。夏油の思想は、この因果関係に基づいた冷徹な合理主義です。
以前の記事で「敵に現実で解決できていないテーマを語らせろ」と書きましたが、夏油はまさにその実践例です。「守るべき対象が問題の根源でもある」というジレンマは、現実の社会問題にも通じる構造を持っています。だからこそ、観客は夏油を単純に憎めない。
さらに注目すべきは、夏油が「善意から出発している」という点です。彼はもともと非術師を守りたかった人間です。その善意が極限まで追い詰められた結果、排除という結論に至った。善意の暴走ほど怖いものはありません。『進撃の巨人』のエレンが「仲間を守る」動機を究極まで推し進めた結果「地鳴らし」に至ったのと同様に、「正義の味方が正義を突き詰めた結果ヴィランになる」構造は、単なる悪役とは比較にならない説得力を持ちます。
ここで物語構造として注目したいのは、乙骨と夏油の対比が「個人」と「社会」の対比になっている点です。乙骨の「純愛」は一人の人間を愛する感情であり、夏油の「大義」は社会全体を見据えた思想です。どちらも真剣で、どちらも歪んでいる。個人の愛は執着に堕ちる危険があり、社会のための理想は排除に堕ちる危険がある。善悪の二項対立ではなく、「愛の射程距離の違い」として描いたことで、この映画は少年漫画の枠を超えた深みを獲得しました。
前日譚(プリクエル)が持つ構造的な強み
本作は呪術廻戦本編の前日譚です。この「プリクエル」という構造には、物語を書くうえで参考になるポイントがいくつかあります。
まず、結末がある程度わかっている安心感。本編を知っている読者は「乙骨は生き延びる」「五条悟は無事」と知った状態で見ることになります。ネタバレのように聞こえますが、ここがプリクエルの面白いところで、「何が起きるか」ではなく「なぜそうなったか」に集中できるのです。結末を知っているからこそ、過程の描写が際立つ。
もう一つは、本編だけでは見えなかったキャラクターの奥行きが見えることです。五条悟と夏油傑の関係性は、本編では断片的にしか描かれていません。しかし前日譚で二人が同じ側に立っていた時代を描くことで、決裂の重みが何倍にも増します。これは『スター・ウォーズ』のプリクエル三部作がアナキンとオビ=ワンの関係で成功した手法と同じですね。
プリクエルの隠れた強みをもう一つ挙げるなら、「読者に二重の時間軸を体験させる」ことです。前日譚を読む読者は、「過去の物語」と「未来の結末」を同時に意識する状態に置かれます。乙骨と里香の別れを見ているとき、読者の脳裏には本編での乙骨の姿がちらつく。この二重視点が、単体の物語よりも複雑な感情体験を生み出します。時間が一方向にしか流れない小説というメディアで、プリクエルは唯一「時間を双方向に体験させる」装置なのかもしれません。
あなたが長編やシリーズものを書いているなら、「前日譚を独立した作品として書いてみる」というのは有効な手段です。キャラクターの深掘りができるだけでなく、新規読者の入り口にもなります。
あなたの物語に活かすなら
本作から創作に活かせるポイントを整理します。
・キャラクターの戦う動機は「私的」であるほど読者は感情移入しやすい
・ヴィランの主張に論理的な整合性を持たせると、物語の深みが増す
・設定とテーマを一体化させる(呪い=愛という構造)と、説教臭さが消える
・プリクエルは「何が起きるか」ではなく「なぜ」に焦点を当てると成功しやすい
・善意から出発したヴィランは、純粋な悪役よりも怖い
特に1つ目は重要です。「世界を救う」という大義名分よりも、「好きな人を助けたい」「自分が生きていていいのか知りたい」という個人的な動機のほうが、読者の心に届きやすいことは多いです。あなたのキャラクターの動機を、いちど「もっと個人的にできないか?」と問い直してみてはいかがでしょうか。
もう一つ実践的なアドバイスを加えるなら、設定とテーマの一体化を意識してほしいです。「このテーマを伝えたい」と思ったとき、台詞やモノローグで語らせるのではなく、世界のルールそのものにテーマを埋め込む。呪い=愛の構造がそうであったように、設定を読んだだけでテーマが伝わる状態を目指す。これができると、物語全体の密度が格段に上がります。どうですか、少し書ける気がしてきましたか?
まとめ
『劇場版 呪術廻戦 0』は、少年漫画の劇場版としては異例なほど「愛とは何か」という問いに真正面から取り組んだ作品でした。「純愛だよ」の一言に込められた、エゴと誠実さの共存。正義を語るヴィランと、愛しか語らない主人公の対比。この構造が、2021年の観客の心を掴んだのだと感じています。
愛と呪いが同じ根から生える世界。この設定を受け入れたとき、私たちの中にある「手放せないもの」の正体が少しだけ見えてくるような気がします。物語を書き続けるという行為もまた、一種の呪いなのかもしれません。ですが、乙骨がそうであったように、それを「純愛だよ」と呼べるかどうかが、創作者としての覚悟の試金石になるのではないでしょうか。
あなたの物語にも、手放せない何かがあるはずです。それを恐れずに書いてみてください。