IT企業で15年働いて小説に効いた経験は「障害対応」だった
こんにちは。腰ボロSEです。
「IT企業の経験は創作に活かせますか」と聞かれることがあります。
答えはイエスです。ただし、活かせるポイントは「プログラミングの知識」でも「論理的思考力」でもありませんでした。私がIT企業で15年働いて、小説に最も還元できた経験は、深夜の障害対応です。
深夜3時のサーバールーム
本番環境の障害というのは、たいてい最悪のタイミングで起こります。金曜の夜、連休の前日、あるいは納品直前。「さあ帰ろう」とPCをシャットダウンしかけた瞬間に、監視ツールのアラートが鳴り響く。
障害対応の初動は、とにかく「何が起きているか」を把握することです。ログを読む。エラーメッセージを追う。再現手順を探る。情報は断片的で、矛盾していることもある。でもその断片を繋ぎ合わせて、「これが原因だ」という仮説を立て、検証し、違ったらまた別の仮説を立てる。
この作業は、ミステリー小説の探偵がやっていることと本質的に同じです。散らばった手がかりを集め、仮説を立て、検証する。違ったら振り出しに戻る。そして真相に辿り着いたとき、すべての断片がひとつの絵に収まる快感がある。
私は推理小説を書くとき、この「障害対応」の感覚をそのまま使っています。探偵が手がかりを追う過程は、エンジニアがログを読む過程と同じリズムで書けるからです。
「緊張」の肌触りを知っていること
障害対応で最も役に立ったのは、「緊張とはどういう身体感覚か」を知っていることです。
本番環境が落ちている。お客さんのサービスが止まっている。1分ごとに被害が拡大している。電話が鳴り続けている。上司が後ろで腕を組んで立っている。自分のキーボードを打つ指が、微かに震えている。
この状況で人間がどうなるか、私は身体で知っています。口の中が乾くこと。背中の汗が冷たくなること。視野が狭くなって、画面の一点だけに意識が集中すること。周囲の会話が遠くなること。時間の感覚がおかしくなって、10分が1時間にも30秒にも感じること。
これを「緊張した」の一言で済ませるか、身体感覚として描写できるかが、小説のリアリティを分けます。以前、労働描写の記事で「具体は正義」と書きました。障害対応のあの感覚は、まさに「具体」の塊です。
「理不尽」の文法
IT企業で長く働いていると、理不尽な状況に何度も遭遇します。
自分のミスではないバグの責任を取らされる。「言った言わない」の水掛け論で会議が空転する。技術的に正しい判断を、政治的な理由で却下される。完璧に動いているシステムを、上の一声で作り直すことになる。
これらは不快な経験ですが、小説家にとっては宝です。
なぜなら、物語における「理不尽」は読者の感情を最も強く動かす要素だからです。主人公が正しいのに報われない。努力が無駄にされる。味方だと思っていた人間に裏切られる。こういうシーンは「悔しい」「やるせない」という感情を読者の中に生み出し、それが物語を読み進める推進力になります。
ただし、理不尽を物語で機能させるには「理不尽の文法」を知っている必要があります。どういう手順で理不尽は発生するのか。誰が何の意図で動いたときに、善意が裏目に出るのか。悪意がなくても構造的に理不尽が生まれる仕組みとは何か。会社という組織の中で、そのメカニズムを肌で感じてきた経験は、フィクションの中でリアルな「理不尽」を設計するときに直接役立ちます。
『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブルが魅力的なのは、彼の行動原理が組織と個人の狭間にある理不尽から生まれているからです。ジオンという組織、ザビ家という権力構造、そしてダイクンの遺児としての立場。IT企業で組織の論理に翻弄された経験がある人なら、シャアの怒りは他人事に思えないのではないでしょうか。
「報連相」はそのまま「会話シーン」になる
SEの仕事は、実はかなりの部分が「人に説明すること」で構成されています。
お客さんに仕様を説明する。上司に進捗を報告する。後輩に設計の意図を伝える。障害が起きたら、技術を知らない相手に「何が起きていて、どうすれば直るか」を、専門用語を使わずに説明しなければならない。
この「相手のレベルに合わせて情報を翻訳する」スキルは、小説の会話シーンを書くときにそのまま使えます。
登場人物Aが専門家で、Bが素人である場合。AがBに何かを説明するシーンは、私が普段お客さんにシステムの仕組みを説明しているのと同じ構造です。どこまで端折っていいか、どの比喩を使えば伝わるか、相手が「わかったふり」をしたときの表情はどんなものか。これは業務の中で毎日訓練されています。
逆に、AとBが両方専門家である場合の会話、つまり「内輪の言葉」で成立する会話のリズムも、チーム内のSlackでのやり取りをそのまま写せば書けるんですよね。外部の人間には意味不明だけど、当事者同士では完全に通じているあの感じ。
活かせなかったもの
正直に書くと、「活かせなかった」部分もあります。
「論理的思考力がプロットに活きる」と言われることがありますが、私の実感ではそこまで直結しません。プロットは論理だけでは組めない。「論理的には正しいけど、物語としてつまらない展開」が山ほどあるからです。むしろプログラミングの癖で、物語を「最適化」しようとしてしまい、無駄を削りすぎて味気なくなることがありました。
システム設計では冗長性は排除すべきものですが、小説では冗長な描写がキャラクターの魅力になったりする。効率的な最短ルートが、必ずしも面白い物語にはなりません。これに気づくまでに何作か無駄にしました。
もうひとつ、IT企業にいると「正解がある」前提で思考する癖がつきます。バグには必ず原因がある。仕様には正しい実装がある。でも小説には「唯一の正解」がない。複数の展開がどれも「あり得る」し、どれが「最善」かは書いてみないとわからない。この不確実性に耐えるのが、エンジニア出身者にとっては一番難しいところかもしれません。
仕事は取材である(ただし、そう思えるまでに時間がかかる)
IT企業での15年を振り返ると、「無駄だった」と思う時間は一秒もありません。ただし、それがわかるのは事後的にです。渦中にいるときは、ただ辛いだけでした。
終電で帰る日が続いたとき、「これは小説のネタになる」なんて思えませんでした。でも何年か経ってから、ある短編を書いているときに、あの日の疲労感がふっと蘇ってきて、そのまま主人公の疲れとして書けた瞬間がありました。
仕事は取材だ、と割り切れるようになったのは、30歳を過ぎてからです。それまでは「仕事は仕事、小説は小説」と分けて考えていた。でもある時期から、会社で経験したこと——失敗も成功も理不尽も——が全部、原稿用紙の上で回収されていくのを感じるようになりました。
どうせ1日8時間は働くのです。その8時間を「小説とは無関係の時間」と思うか、「まだ使っていない素材が堆積していく時間」と思うか。後者のほうが、少しだけ楽に椅子に座れます。腰は痛いですけどね。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
さて、今日も物語を書きましょう。腰は壊しても、筆は折らない。
腰ボロSE
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