【映画×創作】2021年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』に学ぶ完結の美学と「さようなら」の技術
※感想は、どうしても自分語りから始まってしまうことをお許しください。
24年前、中学生だった私はエヴァンゲリオンと出会い、そのスタイリッシュな表現に心を掴まれました。TV版25話26話は繰り返し見て、セリフを覚えるほどでした。旧劇を見て放心状態に陥ったのもいい思い出です。これは凄まじいものを見た……と、感受性豊かな中学生の私は、庵野監督の信者となりました。
それから24年、早いものですね。
大学のときに新劇場版・序が始まり、大学院で新劇場版・破を見ました。社会人になって同僚と新劇場版・Qを見に行き、クエスチョンマークが浮かんだのも良い思い出です。そして、シン・エヴァンゲリオンは弟と見に行きました。
「虚構ではなく現実を生きなさい」という、旧劇から変わらないメッセージを、丁寧な描写により見せてくれた映画でした。
最後はシンジとマリが手をとって、現実世界を駆け出していきました。ちまたで言われているマリ=安野モヨコさん説がしっくりきましたね。庵野監督は、モヨコさんと出会って、虚構ではなく現実を前向きに生きることができるようになったのでしょう(3/22 プロフェッショナル 仕事の流儀 「庵野秀明スペシャル」を見て、モヨコさんがいなかったら、庵野監督は命を失っていたかもしれないと感じました)。
ただ、現実を生きなさいと突き放す描き方ではなく、虚構で悩んでもいい。成長して現実を生きようねという暖かさを感じました。これは旧劇の頃にはなかった優しさです。
エヴァンゲリオンに魅せられた人々が、エヴァンゲリオンとの思い出にけじめをつけられた作品でした。2021年、ついに完結してしまった25年の物語。観客の口から出た言葉は「終わった」「ありがとう」「さようなら」と様々でしたが、創作者としてもう一歩踏み込んで考えてみたいことがあります。
「終われなかった物語を、庵野秀明はどのように終わらせたのか」。旧劇場版でもテレビ版でも漫画版でも、エヴァは「完結できない物語」の代名詞でした。その呪いをどう解いたのか。一緒にその覚悟に迫ってみましょう。
3つの仮説を立てて、それぞれの角度から考えてみます。
仮説1:「神話から降りる」という完結法
エヴァといえば、難解な設定、謎、そして神話的な物語構造が有名です。しかし、本作の結論は驚くほどシンプルで、かつ人間的でした。
ネオンジェネシス(新たな創世記)。世界は書き換えられ、エヴァのない世界へと移行します。これは「神話からの脱却」であり、「現実への帰還」です。言い換えれば、壮大な設定のすべてを畳んで、人間の日常に着地させたということになります。
碇シンジは、これまでずっと何かに乗せられ、動かされてきました。父の命令、ゼーレの意志、人類補完計画。しかし最後、彼は自らの意思で「エヴァに乗らない」ことを選び、世界を変えます。この「主人公の成長=物語システムの否定」という構造は非常に強力です。
なぜこれが効果的なのか。私は、「観客の期待を裏切る」のではなく「観客の期待を超える」からだと感じます。エヴァの観客が期待していたのは「謎の解明」や「壮大なバトル」だったはずです。しかし庵野監督は、その先にある「シンジが大人になる」というシンプルな結末を用意した。謎を謎で上書きするのではなく、謎ごと「もういいよ」と手放す。この勇気が、物語を完結させたのだと考えます。
これは、エヴァ以外の長期シリーズにも通じる話ですよね。「伏線をすべて回収しないと完結できない」という味び声は、時に作者を縛ります。しかし庵野監督は、伏線を回収するのではなく「伏線が重要だった世界」そのものを終わらせるという荒業をやってのけました。
日本語でいうと「親離れ」に近い感覚かもしれません。守られたゆりかごの中にいつまでもいるのではなく、自分の足で不完全な現実を歩いていく。『ガンダム∀』の「黒歴史」の概念に通じるものがあります。あちらも世界を「リセット」し、過去の後悔ごと前に進む物語でした。
もしあなたの作品で試すなら、長編のラストで主人公がこれまで頼ってきた「力」や「設定」を手放すような展開を考えてみるのも面白いですよ。最強の剣を捨てる勇者。魔法を失う魔法使い。何かを得るのではなく、何かを捨てることで大人になる。その切なさが、読者の心に深く刺さるんじゃないかなと思います。
この「降りる」技法にはリスクもあります。読者が求めているのは「もっと強くなる主人公」かもしれないからです。でも、物語に「終わり」のカタルシスを与えたいなら、登り続けることではなく、自ら降りることが最も強い選択肢になり得るのではないでしょうか。シンジがエヴァを降りたのは、弱さではなく、25年かけて到達した最も強い決断だったのだと思います。
仮説2:「日常」の重みがカタルシスを支える
前半の第3村パートについて。ボロボロになった世界で、人々が精一杯生きています。農業をし、風呂に入り、挨拶をする。一見退屈なシーンですが、ここがなければ後半のカタルシスは成立しません。
なぜなら、「守るべきもの」が具体的に描かれているからです。世界を救うと言っても、抽象的な「世界」ではピンときません。しかし、トウジが耕した畑、猫がいる家、アスカが制服を着る学校。それらを守るためなら、戦う理由になります。
これは品質の高い日常描写が戦闘のカタルシスを左右するという、とても実践的なヒントです。派手なバトルを描く前に、まずは何気ない日常の尊さを描いてみませんか。ご飯が美味しい、風が気持ちいい、隣に誰かがいる。その些細な幸福が、戦いの悲壮感をより際立たせてくれるはずです。
この「守るべき日常の具体化」という技術は、実はそれほど多くの作品で意識されていません。多くのバトルものは「世界を救う」と言いながら、その世界の住人の生活を描かない。しかし、『シン・エヴァ』は第3村という一見「地味な」パートに全体の30%近い時間を割いています。この投資があるからこそ、ラストのカタルシスが「この世界を守りたい」という観客の感情として機能するのです。
さらに言えば、第3村ではシンジ自身が「何もできない」状態で過ごします。ご飯を食べさせてもらい、ぼんやりと日々を送る。この「受動的な時間」を経て、彼が自ら立ち上がるからこそ、観客は彼の成長を信じることができるのではないでしょうか。焦らず、回復を描く。この忍耐がストーリーテリングの質を大きく左右するのかもしれません。
仮説3:メタフィクションが「祈り」に変わる条件
本作はメタフィクション(虚構であることを意識させる演出)を多用しています。撮影セットのような場所での戦闘、絵コンテのような演出。これらは一歩間違えば「冷める」危険な手法です。しかし、なぜ感動できたのでしょうか。
私は、メタフィクションが機能する条件があると考えます。それは「作者の祈りが透かし見えていること」です。
シンジがゲンドウと対話するシーン。あれは、監督が過去の自分と対話しているようにも見えます。ゲンドウが語る孤独、人に触れられなかったハリネズミの痛み。それは庵野監督自身の告白でもあるのではないでしょうか。
そしてシンジがマリと手を取り合って駆け出すラストシーン。どこまでも開かれた宇部駅の階段。あれは私たち観客へのメッセージです。物語の中に閉じこもるのではなく、現実を生きてほしい。そんな願いが込められているからこそ、メタ演出が「説教」ではなく「祈り」として届くのです。
この技術を小説に応用するなら、「語り手が読者に話しかける」メタ的な描写を入れるとき、その動機が自己満足なのか祈りなのかを確認してみてください。「この物語を読んでいるあなたに、何を渡したいのか」が自分の中ではっきりしていれば、メタ構造は機能すると思います。そうでなければ、ただの「仕掛け」で終わってしまうかもしれません。
『NieR:Automata』のEエンドを思い出します。プレイヤー同士が助け合い、セーブデータを消去して現実へ戻るあの感覚。メタ構造が「ゲームをやめろ」と言っているのに腰が抜けるほど感動する。あれも「祈り」が入っているからです。
つまり、メタフィクションは使い方を間違えると「作者の自己満足」になり、正しく使えば「作者と観客の対話」になる。その分岐点は、「作者が自分のために書いているか、読者への祈りとして書いているか」ではないかと感じます。
マリという「解釈が分かれる」キャラクター
本作で最も議論を呼んだのが、ラストでシンジと共にいるマリの存在です。
マリについては複数の解釈が存在し、どれも決定的ではありません。「庵野監督の妻のメタファー」という解釈。「エヴァという物語の外から来た新しい風」という解釈。「レイでもアスカでもない、シンジが『自分で選んだ』最初の人」という解釈。
私が注目するのは、どの解釈でも「マリがシンジを『正解』へ導いた」という機能が共通している点です。彼女はシンジの過去の痛みも、エヴァの呼び声も「そういうこともあるよね」と軽やかに受け止める。その軽さが、物語の重力からシンジを解放しているのかもしれません。
これは創作として興味深い設計です。「解釈が分かれるキャラクター」は、読者の議論を吸引する装置になります。いわゆる「『エヴェット』問題」のように、正解を明示しないことで読者が「自分の解釈」を持つ余地を作る。この余地こそが、作品の寿命を延ばす構造的効果を持っています。
あなたの物語で「正解を持たないキャラクター」を一人入れてみるのも面白いかもしれません。読者はその人物を通じて「自分ならどう解釈するか」を考え始めます。解釈の余白が議論を呼び、議論が作品を長く生かす。マリはその好例ですし、創作者にとってもヒントの多い設計手法だと感じます。
ここまでの3仮説を振り返ると、庵野監督が25年かけて到達した結論は「物語を閉じる勇気」だったと言えます。謎を残し続けることへの誘惑を断ち切り、不完全でも現実を選ぶ。その決断こそが、エヴァという「終われなかった物語」を終わらせた鍵でした。
まとめ
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』から学べる創作のポイントは以下の3点です。
1. 「最強の力」や「物語のシステム」を手放すことで成長を描く
2. 日常パートを丁寧に描き、戦う理由(守るべき具体)を描写する
3. メタフィクションは「祈り」として機能するときだけ使う
勉強になりました。25年も続く作品を完結させるという偶業。終わらせる勇気って、始める勇気と同じくらい難しいものですよね。私たちも、まずは目の前の一作を完結させることから始めてみませんか。「鬼滅の刃」の煉獄さんが責務を全うしたように、そしてシンジがエヴァを降りたように、物語に「さようなら」と言える創作者でありたいですね。
これを参考にどんな設定が作れるでしょうか。例えば、最強の能力者が最後にただの人間に戻って幸せになる物語や、滅びゆく世界で農業をするスローライフから始まる英雄譚なんて作れそうですよね。
どうですか、プロットが見えてきましたか。あなたが一つの物語を完結させようと思えたなら、私はとても嬉しいです。もし物語の終わらせ方に悩んだら、このブログに戻ってきてください。
完結とは、答えを出すことではなく、「問い続けること」をやめる覚悟なのかもしれません。あなたの物語にも、いつか「さようなら」を言える日が来ることを願っています。