「自分の中の闇」を直視して書く|作家が加虐性と差別衝動に向き合うとき作品は道標になる
こんにちは。腰ボロSEです。
最近Xで、ある漫画家の連載最終巻の後書きが話題になっていました。要約するとこうです。「自分自身、いつか差別や加虐の衝動に支配されてしまうことがあるかもしれない。我を失う前の最後の道標として、この作品を描けたことを誇りに思う」。
この一文を読んで、私はぞくっとしました。作家が自分の中の闇を信用していないから、こういう言葉になる。きれいごとで「悪は許されない」と書く作家ではなく、自分も将来加害側に転がるかもしれないと知っている作家の言葉です。
この記事では、作家が自分の中の加虐性や差別衝動を直視して、それを止めるための「道標」として作品を描く——という創作の姿勢について、4人の作家の本人発言ベースで掘り下げます。さらに、その姿勢を支える思考を相対化する技術と、客観性と抽象性のバランスを取る方法をまとめます。読み終わるころには、あなたが今書いているテーマに対して、もう一段深い距離感を持てるようになっているはずです。
一番バランスよく感じられる時期は意外と短い
最初に押さえておきたいのは、作家が自分の中の闇に対して一番バランスよく感じられる時期は、意外と短いということです。
若すぎると、自分の中の怒りや嫉妬を「正義」と取り違えます。年を取りすぎると、過去の感情を抽象化しすぎて、生々しさが消えます。中間のどこかに、「まだ怒りが生々しいのに、それを外から見られる」という奇跡的な時期があります。
| 時期 | 強み | 弱み |
|---|---|---|
| 若年期(10代後半〜20代前半) | 衝動が生々しい、エネルギー量が多い | 自分の感情を絶対化しがち |
| 中間期(20代後半〜40代) | 衝動と客観の両方が手元にある | 仕事や生活の制約で時間がない |
| 熟年期(50代以降) | 抽象化と俯瞰が得意 | 衝動の手触りが薄れる |
問題は、この中間期に「自分はもう大人だから大丈夫」と油断して、自分の中の闇を見ないふりをしてしまう作家が多いことです。本当はその時期こそ、若いころの怒りや差別衝動を素材として書ける唯一のタイミングなのに。
冒頭の漫画家の言葉が重いのは、まさにこの中間期に「今書かないと、自分はいつか闇に飲まれる」という危機感を持っていたからです。バランスのいい時期に、未来のバランスを失った自分への道標を残す。これが「自分の中の闇を直視して書く」という創作の最高純度の形だと思います。
反対の意見を自分の中に飼うと幅が広がる
自分の中の闇を直視するために、最初にやるべきことは反対の意見を自分の中に飼うことです。
これは具体的にどうやるか。自分が「正しい」と思っている価値観を、わざわざ反論側から書いてみる作業です。
• 「努力は報われるべきだ」と思っているなら、努力が報われない世界を肯定する人物の論理を書く
• 「差別はいけない」と思っているなら、差別する側の人間がなぜそうなったかを内側から書く
• 「家族は大切」と思っているなら、家族から逃げた人間の言い分を一人称で書く
ここで大事なのは、反論側を「悪」として描かないことです。悪役にしてしまうと、結局自分の正義を補強するだけで、視野は広がりません。反論側にも筋の通った論理があると認める。それを書ける作家は、自然と作品の解像度が上がります。
『鋼の錬金術師』のスカーが、国家錬金術師を殺し続ける動機は、内側から見れば筋が通っています。荒川弘は彼を単なる復讐者として描かず、復讐の連鎖が止まらない理由まで書ききりました。読者がスカーを完全には憎めないのは、作者が反論側の論理を引き受けているからです。
『ヴィンランド・サガ』のトルケルは戦闘狂で殺戮を楽しむ怪物ですが、彼が「強い相手と戦うことだけが生きる証」だと信じている理由を、幸村誠は丁寧に書いています。読者は彼を肯定はしないが、否定もできない。これも反論側を内側から書いた成果です。
自分の中に反対意見を飼うと、自分が無自覚に踏んでいた前提が見えてきます。それが見えた瞬間、書ける物語の幅が一段広がります。
「一見それらしい価値観」を相対化する習慣を持つ
反対意見を飼えるようになったら、次は自分が作中で書いた価値観すら相対化する段階に進みます。
ここで重要なのは、作中で主人公が言ったセリフや、ナレーションが提示した教訓を、作者自身が「必ずしも正しくない」と認める姿勢を持つことです。
実際、優れた作家は作品本編で「正しそうな価値観」を提示しておきながら、ファンブックや対談で「あれは一面的な見方で、必ずしも正しくはない」と注釈をつけることがあります。これは作品の価値を下げる行為ではなく、読者に「この作品の正解を鵜呑みにするな」と促すメッセージです。
| 段階 | 作者の姿勢 | 作品への効果 |
|---|---|---|
| 第1段階 | 作中の主張を絶対化 | 説教臭くなる |
| 第2段階 | 作中で複数の価値観を提示 | バランスが出る |
| 第3段階 | 作中の価値観を作者自身が外側で相対化 | 読者の思考が動き出す |
第3段階まで行くと、作品は「答え」ではなく「問い」として機能し始めます。読者は作者の手を離れて、自分で考え続けることになります。
『進撃の巨人』のエレンは作中で何度も「自由」を叫びますが、諫山創は対談で「エレンの選択が正解だとは思っていない」という趣旨の発言をしています。作中の主人公の信念を作者が外側から相対化することで、読者は「エレンの自由」を鵜呑みにせず、自分で考え直すことになります。
『鬼滅の刃』の炭治郎の「鬼にも事情があった」という慈悲は、作中では美しく描かれます。しかし吾峠呼世晴は、その慈悲が鬼を許すことではないことも明確にしています。同情と肯定は別物。この相対化があるから、炭治郎の優しさが押し付けにならずにすんでいます。
このやり方は、思考を無限に相対化していくタイプの作家に向いています。自分の作品の正解を自分で疑える人こそ、作中の価値観を独善にしない技術を持っている人です。
客観性と抽象性を高めるとバランスのいい作品ができる
自分の中の闇を直視し、反対意見を飼い、自分の作品すら相対化する——この3つを習慣にすると、作家には客観性と抽象性が育ちます。この2つこそが、バランスのいい作品の土台です。
それぞれを言い直すとこうなります。
• 客観性——自分の感情を外から眺める力。怒っている自分を「いま私は怒っている」と認識できる距離感
• 抽象性——個別の出来事から普遍的な構造を取り出す力。自分が受けた特定の差別を、人類共通の「他者を排除する仕組み」まで持ち上げる力
具体例で見てみましょう。
| 失敗パターン | 客観性が低い場合 | 抽象性が低い場合 |
|---|---|---|
| 復讐ものを書く | 主人公が爽快に殺して終わる | 自分の個人的な恨みがそのまま投影されて読者に届かない |
| 差別を扱う | 差別する側を一方的な悪魔として描く | 特定の事件をなぞるだけで普遍性が出ない |
| 家族の愛を書く | 自分の家族観を絶対視して押し付ける | 自分の家族の話だけで、誰の心にも届かない |
逆に、客観性と抽象性の両方が高い作品は、作者個人の体験から出発しているのに、読者一人ひとりの体験として読めるようになります。これが「普遍性」と呼ばれているものの正体です。
テーマ・キャラクター・プロットの三位一体|物語創作の循環設計で書いたように、テーマを物語に落とし込むには3要素の循環が必要ですが、その前提として作者の客観性と抽象性が一定水準に達していることが条件になります。
4人の作家が「自分の闇」と向き合った例
ここからは、客観性と抽象性を駆使して自分の闇を作品に変えた4人の作家を、本人発言ベースで紹介します。いずれも公開されているエッセイ・対談・講演で本人が語った内容です。
手塚治虫『アドルフに告ぐ』
手塚治虫は晩年のエッセイ集『ガラスの地球を救え』や自伝『ぼくはマンガ家』で、戦中の大阪空襲体験と、軍人に殴られた屈辱について繰り返し書いています。彼は「戦争が人をどう変えるか」を理屈ではなく身体で知っていたから、『アドルフに告ぐ』のヒトラー、カミル、ランプ警部の三者を、誰も一方的な悪として描けませんでした。
戦中の自分の中にあった「軍国少年的な熱狂」と、戦後それが反転した瞬間の自己嫌悪。両方を抱えた作家だからこそ、ナチズムに染まっていく主人公を内側から書けたのです。
大江健三郎『個人的な体験』
大江健三郎は知的障害のある長男・光が生まれたとき、一時は「この子の存在を消したい」という衝動を持ったと、後年のノーベル賞受賞講演やエッセイで認めています。その衝動を直視して書いたのが『個人的な体験』です。
主人公の鳥(バード)が我が子の死を願う場面は、作者の実体験から来ています。きれいごとで「父親の愛」を書かなかったから、この作品は世界文学になりました。自分の中の最も醜い感情を素材にする勇気が、客観性と抽象性を最大化した例です。
村上春樹『アンダーグラウンド』『約束された場所で』
村上春樹は地下鉄サリン事件の被害者・加害者双方への取材ノンフィクションを書きました。あとがきで彼は、「オウム信者の中にあるものは、自分の中にもあるかもしれない」という趣旨のことを書いています。
加害者を「自分とは違う異常者」として切り捨てれば話は早い。しかし彼はそれを拒否して、自分の中にも同じ闇があると認めました。この姿勢があるから、彼の小説の悪役は単純な悪魔にならず、読者の中の「自分かもしれない」という不安を呼び起こします。
宮崎駿『風立ちぬ』
宮崎駿は徹底した反戦主義者でありながら、零戦の設計者・堀越二郎を主人公にしました。『風立ちぬ』公開時の対談やドキュメンタリー『夢と狂気の王国』で、彼は「自分の中にある兵器への憧れと、それを否定したい思いの矛盾」について何度も語っています。
兵器をかっこいいと思ってしまう自分。戦争に反対する自分。両方を抱えたまま映画にしたから、作品が二重三重の意味を持ちました。彼が自分の矛盾を相対化しなかったら、ただの「美しい戦闘機映画」か「ただの反戦プロパガンダ」のどちらかになっていたはずです。
創作者として「闇を素材にする」具体的な実践法
では、私たちが自分の中の闇を素材にするには、どこから始めればいいか。実践のステップを整理します。
| ステップ | やること | 出力 |
|---|---|---|
| 1 | 自分の中で一番恥ずかしい感情を1つ書き出す | 例:誰かの不幸を聞いて少し安心した瞬間 |
| 2 | その感情をキャラクターに分配する | 主人公だけでなく敵役にも分ける |
| 3 | その感情を「正しい」とも「間違い」とも書かない | 描写するだけにして判定を読者に委ねる |
| 4 | 書き終わったあと、自分の作中の主張を疑う | 「これは本当に正しいのか?」と問い直す |
| 5 | 必要なら作品の外側で相対化のコメントを残す | あとがき、対談、SNSで「これが唯一の答えではない」と添える |
このプロセスで重要なのは、ステップ3の「判定を下さない」部分です。作家が判定を下した瞬間、読者は考えるのをやめます。判定を保留すると、読者は自分の中で考え続けます。
キャラ創作の本質は「超意図」にある|設定表の先にあるもので書いた「キャラの最も強い欲求」を掘り下げる作業も、自分の中の闇を素材にすることと地続きです。自分が一番欲しかったもの、一番怖かったものから作るキャラは、設定表の上で動くキャラとは違う重みを持ちます。
まとめ
作家が自分の中の加虐性や差別衝動を直視して、それを止めるための道標として作品を描く——この姿勢は、4つの段階で支えられます。
• バランスのいい時期に書く——衝動が生々しく、かつ外から見られる中間期を逃さない
• 反対意見を自分の中に飼う——反論側を悪役にせず、内側から論理を書く
• 作中の価値観すら相対化する——自分の作品の正解を自分で疑い、読者に考えさせる
• 客観性と抽象性を高める——個人の体験を普遍構造まで持ち上げる
手塚治虫、大江健三郎、村上春樹、宮崎駿——4人の巨匠が共通して持っていたのは、自分の中の最も醜い部分を素材にする勇気と、それを判定せずに読者に渡す距離感でした。
冒頭の漫画家の「我を失う前の最後の道標として作品を描けたことを誇りに思う」という一文も、この系譜に連なります。未来の自分が闇に飲まれるかもしれないことを認めて、いまの自分のバランス感覚を作品に封じ込める——これが創作の最も深いところにある動機のひとつです。
私自身も、自分の中の小さな差別意識や、誰かを見下したい衝動を、見ないふりをしたくなることがあります。でも、それを書くしかないんですよね。書くことで、自分の中の闇を外に置いて、未来の自分に「お前はこれを書いた人間だ」と突きつけるしかない。
さあ、今日も物語を書きましょう。あなたの傑作を待っています。
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