《小説感想》徳川家康 あまりに長い欣求浄土への道

2020年7月20日

こんにちは。腰ボロSEです。

山岡荘八の『徳川家康』全26巻を読破しました。3月頭から5ヶ月かけての長い旅でした。

徳川家康の母・於大の方の時代から始まり、今川、信長、秀吉、石田三成、真田、伊達と戦国時代のスーパースターたちの物語がこれでもかと詰まっています。あまりに長い「欣求浄土」への道を最後まで歩みきった家康に拍手。同時に26巻を読み切った自分にも拍手したくなる作品です。

5ヶ月という読書期間は、普通なら「長すぎる」でしょう。しかし読み終えてみると、この「長さ」そのものが作品の本質でした。家康の人生は「待つこと」の連続です。今川の人質時代、信長との同盟時代、秀吉の天下を静かに見守る時代。読者もまた、家康と一緒にひたすら待つ。その体験が、最終巻での天下泰平の達成に言いようのない重みを与えるのです。

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「待つ主人公」という逆張りの設計

現代のフィクションにおいて、主人公は「行動する人」であることが求められます。受動的な主人公は嫌われる。読者は「何もしない主人公」にイライラする。それが定説です。

しかし家康は、物語の大半を「待つ」ことに費やします。少年時代は今川家の人質として忍耐し、信長の同盟者としては信長の暴走を横目に自領を守り、秀吉の天下では臣従しながら時を待つ。自ら仕掛けて天下を動かすのは、物語の終盤になってようやくです。

この「待つ主人公」が26巻もの長編で読者を飽きさせないのは、家康の「待ち方」が受動的ではないからです。家康はただ耐えているのではなく、待っている間に準備を続けている。家臣団を育て、領国を整え、外交を学び、人心を掌握する。表面上は何も起きていないように見える時間に、水面下で着々と力を蓄えている。SEとして働いていると、この「水面下の準備」の重要性は痛いほどわかります。システムの切り替えや大規模リファクタリングは、表から見れば「何も変わっていない」時期にこそ勝負が決まる。家康の「待ちの時間」は、まさにその準備期間です。この「静かな前進」が、読者に「いつか来る爆発」への期待を持たせ続けるのです。

創作において「受動的に見える主人公」を書くとき、この設計は非常に参考になります。主人公が動かない時間にも、読者に「この人は準備している」と感じさせる。それには水面下の努力を適切に描写する必要があります。何もしていないのではなく、表に出せないだけなのだと読者に伝える。この匙加減が、家康を「退屈な主人公」ではなく「恐ろしい主人公」に変えています。

秀吉という「天才の悲劇」

26巻を通じて最も印象に残ったキャラクターは、実は家康ではなく秀吉でした。

秀吉は生まれながらの天才として描かれています。誰からも好かれ、自分で話しているうちに感動して泣いてしまうような人間味がある。信長の冷徹さは「倫理のタガを外せば真似できるかもしれない」と感じるし、家康の忍耐は「ビジョンを持って辛抱すれば近づけるかもしれない」と思える。しかし秀吉の人たらしの才能だけは、生まれつきのものとしか言いようがないのです。

創作の観点から見て、秀吉というキャラクターが示唆的なのは「生まれつきの天才は、努力で成長できない」という構造です。秀吉は若い頃、天性の人間力で周囲を魅了し、出世を重ねます。しかし天下を取った後、その天才性が裏目に出始める。自分を磨く必要を感じた経験がないから、年老いてからの衰えに対処しようがない。朝鮮出兵、醍醐の花見——晩年の秀吉は、若い頃の成功体験に縋りつく老人として描かれます。かつてあれほど人を惹きつけた笑顔が、権力にしがみつく醜さに変わっていく。その変貌ぶりが痛々しく、同時にリアルです。現代の組織にも、若い頃のカリスマで出世した人が、年齢とともに「老害」と呼ばれるようになるケースは少なくありません。秀吉の晩年はその原型を見せてくれます。

「天才の没落」というパターンは、フィクションにおいて強烈な説得力を持ちます。努力型の主人公が最終的に天才を超えるという物語は数多くありますが、山岡荘八はもう少し複雑に描いている。秀吉は「努力しなかった」のではなく、「努力の仕方を知らなかった」のです。才能があまりに自然だったから、それを維持する方法を学ぶ機会がなかった。この微妙な差異は、天才キャラを書くときに意識したいポイントです。彩り豊かな秀吉と、ストイックな信長と、忍耐の家康。三者三様のキャラクター造形が、それぞれの強みと弱みを照らし合う構造は、群像劇のお手本です。

「悪女」という存在がもたらすリアリティ

本作で強烈な存在感を放つのが、築山御前と淀御前という二人の女性です。

この二人は現代のライトノベルではまず見られないタイプのキャラクターでしょう。なろう小説であれば、登場して一話で退場させられるか、改心させられるレベルの「悪女」です。何度も何度も家康に反乱を仕掛け、何度情けをかけて許してあげても、また歯向かってくる。

しかし山岡荘八は、彼女たちを決して単純な悪役としては描きません。築山御前には今川家出身としての誇りがあり、淀御前には浅井長政の娘としての恨みがある。彼女たちの行動には、それぞれの立場から見れば筋の通った動機がある。読者は彼女たちに苛立ちながらも、「その立場なら自分もそうするかもしれない」と感じてしまう。

ここから学べるのは、「排除されない敵対者」が物語にもたらすリアリティです。現代のフィクションでは、敵対者を素早く排除する展開が好まれます。倒すべき敵を倒して次へ進む。しかし現実の人間関係では、嫌いな人を簡単に排除することはできません。家族、同僚、取引先——付き合い続けなければならない人間との摩擦こそが、人生の大半を占めています。

山岡荘八の家康が築山御前に何度裏切られても処分できないのは、夫婦という関係の中に「排除」という選択肢がない(あるいは極めてコストが高い)からです。この「排除できない敵」の存在こそが、物語に日常レベルのリアリティを与えている。ファンタジーやバトルものでも、「倒せない敵」ではなく「倒してはいけない敵」を配置することで、物語の奥行きは深まるはずです。現実の組織でも、最も厚介な存在は「敵」ではなく「味方のはずなのに音が合わない人」だったりします。その経験があるからこそ、築山御前の描写は胸に刺さりました。

「血筋」という物語装置——なぜ家康は天下を取れたのか

26巻を読んで最も考えさせられたのは、「なぜ秀吉は天下を維持できず、家康は維持できたのか」という問いです。

作品の中で直接語られるわけではありませんが、その答えの一つは「血筋」にあると感じました。家康は源氏の末裔です。源氏の血筋を持つ者だけが征夷大将軍になれる。秀吉は庶民出身であるがゆえに征夷大将軍になれず、苦し紛れに公家となって関白になるという手段を取りました。

「人を治めるには正当性が必要」——この原則は、フィクションの世界でも同様に機能します。王国ものの物語で「なぜこの人物が王なのか」に説得力がなければ、読者は物語に没入できません。「血筋」は最もシンプルで強力な正当性の装置です。『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルンが王位に就けるのは血筋があるから。『ゲーム・オブ・スローンズ』の王位争いが成立するのも、血筋による正当性が世界のルールになっているからです。

山岡荘八は、この「血筋」の力学を26巻かけて丁寧に描いています。秀吉がどれほど優秀でも、血筋がなければ300年の太平は築けなかった。一方、家康は能力だけでなく血筋という「物語」を持っていたからこそ、人心を掌握できた。ここから学べるのは、「能力だけでは人はついてこない」という残酷な現実です。人が誰かに従うには、能力の上にさらに「なぜこの人なのか」という物語が必要になる。キャラクターに王位や指導者の地位を与えるとき、この「正当性の物語」を意識するだけで、設定の説得力は大きく変わります。

26巻を読む価値——物語は「体験の長さ」で深まる

全26巻は、正直に言って万人にすすめられる分量ではありません。しかし読み終えたときに得られるものは、短い作品や要約やダイジェストでは絶対に得られないものです。

家康の人生を5ヶ月かけて追体験するという行為そのものが、「待つ主人公」のテーマと重なります。読者もまた、家康と一緒に長い時間を待ち続ける。その「待った時間」の重みが、最終巻での感動を何倍にもしてくれる。

準備に準備を重ねて時を待つことの大切さ。自分の欲をどこかで捨てることが人間の幸せにとって重要であること。庶民が太平を望んだから天下泰平を目指した家康が天下を取ったという事実。時代は庶民が作り出していくのだという真実。26巻の中に、それらの教訓が詰まっています。

自分の志を貫いた石田三成の生き様も立派でした。人の世に戦はなくならないと家康へ教え込むために最後まで戦った真田の心意気も胸を打ちました。そして最後に伊達政宗が涙した慈悲の心。戦国時代を描いた全26巻の大河小説でありながら、その根底に流れているのは「争いのない世界をどう実現するか」という、極めて現代的な問いです。

全体を通じて感じたのは、山岡荘八の筆が持つ「忍耐を美徳として描く力」です。家康の人生は華々しい勝利の連続ではありません。屈辱と忍耐の連続です。それを「退屈」ではなく「成長」として描く山岡荘八の筆力があるからこそ、26巻という長大な物語が成立しています。

創作者として、この作品から得た最大の教訓は「主人公は動かなくても物語は動く」ということです。周囲の人間が動き、時代が動き、主人公はそれを見据えて準備を続ける。その「待ちの姿勢」が最終的に全てを飲み込む。この構造は壮大かつ静かで、読み終えた後に深い余韻を残してくれました。

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