海外小説と日本小説の違い|「察する文化」の衰退が創作に与える影響

2023年3月11日

海外の小説と日本の小説は、何が違うのでしょうか。

この問いに向き合う理由は、日本の小説が今後数十年をかけて「海外化」していくと考えているからです。大げさに聞こえるかもしれませんが、その兆候はすでに現れ始めています。

「海外化」といっても、日本語で書くことがなくなるわけではありません。読者が物語に求めるもの、「伝わる」と感じる表現の基準が、欧米的な方向にシフトしていくという意味です。その変化を理解しておくことが、次の世代の読者に届く物語を書くための備えになります。

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日本の「察する文化」が揺らいでいる

きっかけは、あるツイートでした。

ヒロインが顔を赤くしてうつむき、「あんたなんか……だいっきらい」と言う。このセリフがどう考えても「I love you」以外の意味を持たないことは、日本のラブコメを読んできた人なら一瞬でわかるはずです。ところが、この裏の意味を読み取れない層が無視できない規模で現れているというのです。

これはラノベやマンガに限った話ではありません。「「大丈夫」と言ってるけど全然大丈夫じゃない」「「いいよ」の声のトーンで本当の意味が変わる」といった、日本語特有の曖昧なコミュニケーションが機能しなくなりつつあるのです。

なぜこんなことが起きているのか。原因は2つあります。

原因1:察する能力から、伝える能力の時代へ

日本は長らく「聞き手側が頭を使う」文化でした。話し手がすべてを言語化しなくても、相手が文脈を読み取ってくれることを前提としたコミュニケーションです。

しかし現代では、「聞き手に頭を使わせない」伝え方が主流になりつつあります。ビジネスの場では「結論ファースト」が常識となり、SNSでは140文字で誤解なく伝えることが求められる。YouTubeでも「最初の10秒で離脱される」と言われ、明快さが何よりも優先される時代です。この傾向が進むと、美しい比喩やほのめかしの表現は「わかりにくい」と敬遠される可能性が高まります。

実際に「ご遠慮ください」が「やめろ」の婉曲表現だと通じない事例も報告されており、これはフィクションの世界にも波及する問題です。小説における間接的な感情表現が理解されなくなれば、作家は表現手法そのものを見直す必要に迫られます。

たとえば「彼女は窓の外の雨を眺めていた」という描写。日本の読者ならそこに悲しみや孤独を読み取りますが、察する文化が薄れると「それで?雨を見てるだけでしょ?」となりかねない。この彼我が、今日の日本の創作者が直面している現実です。

原因2:共通の体験が失われつつある

もうひとつの原因は、「みんなが同じ体験をしている」という前提が崩れてきていることです。

コロナ禍では、通常通り学校に通えた人、リモート授業しか受けられなかった人、どちらもできなかった人が混在しました。高校生活という「青春のテンプレート」に憧れはあっても、実体験としてはまったく触れられなかった人もいます。

かつて高校生活を描いたラノベが圧倒的な人気を誇ったのは、ほぼすべての日本人が3年間の高校生活を体験しているという共通基盤があったからです。放課後の教室、学園祭の準備、部活の帰り道。読者は自分の記憶を重ね合わせて物語を味わうことができた。しかしその共通基盤が揺らぐと、「あるある」で共感を得る手法が通用しにくくなります。

お気づきの方もいるかもしれません。この2つの特徴——「察する文化の希薄さ」と「共通体験の不在」——はまさに欧米社会の特徴でもあるのです。多民族国家では文化的背景が多様であり、「言わなくてもわかる」が通用しません。だからこそ欧米の小説は、明確に伝える技術に長けている。そして日本の読者層も、同じ方向に向かいつつあります。

私自身は、「日本の小説」の海外化をあまり望ましいとは思っていません。日本の文化はちゃんと残ってほしいと考えるからです。ただ、この変化は止まらないとも感じています。海外の小説の特徴を押さえておくことで、次の世代の読者に届く創作の備えとしていただけたらと思います。

※これから述べるのは一般的な傾向です。例外的な作家はもちろんいらっしゃいます。そこはご了承ください。

海外小説と日本小説の4つの違い

ここからは、海外の小説と日本の小説の具体的な違いを整理します。もちろん例外的な作品や作家はいらっしゃいます。そこはご了承のうえ、一般的な傾向として読んでいただければ幸いです。なお、ここでの「海外小説」は主に英語圏のベストセラー小説を想定しています。

違い1:解決すべき問題の所在

日本の小説は「内」に向かいます。「私は何のために生まれてきたのか」「私はどう生きるべきか」「あなたとどういう関係でいたいのか」。解決すべき問題が自分の内面にあるのが特徴です。美学や哲学、心理学的なテーマが物語の中心に据えられることが多い。太宰治から村上春樹まで、日本文学の主流は常に「内面の探求」であり続けています。ラノベでも、主人公の内面的成長が物語の核になる作品は非常に多い。

一方、海外の小説は「外」に向かいます。社会的な問題、事件、冒険など、解決すべき課題が主人公の外側に存在する構造が多い。世界を変える、敵を倒す、事件を解決する——といった「外的な目標」がプロットを駆動します。ハリウッド映画の㌀アクト構成もこの流れの上にあり、「外の問題を解決する過程」が物語の背骨になっています。

もちろんこれは傾向であり、日本にも冒険活劇はありますし、海外にも内省的な文学は存在します。ただ、主流の方向性として内側に向かうか外側に向かうかの違いは、両方を読み比べると明瞭に見えてきます。

違い2:読後の印象

日本の小説は、作品を通じて著者のメッセージや哲学が強く伝わります。ラストに余韻を残す終わり方が好まれ、登場人物と一緒に内面を見つめてきた読者の心に、強い印象を残します。読了後にしばらく物語の世界から抜け出せない——あの感覚は日本の小説の醜醐味です。『私』小説の伝統が、この「心に残る」体験を支えています。

一方、海外の小説は、問題が外にある分、それが解決されたときの爽快感が読後感の中心です。「面白かった!」という体験は残りますが、深いメッセージを自分から探りにいかない限り、印象に残りにくい。問題が明確に解決される構造なので、スカッとする反面、余韻や考察の余地は少なくなりがちです。ミステリー小説を読み終えたあとの「解決した!」という達成感に近いでしょうか。もちろんそれ自体は素晴らしい読書体験ですが、日本の小説が残す「心のざわつき」とは質が異なります。

この違いの根底にあるのが、まさに「察する文化」の有無です。海外の小説は読者に察することを求めないため、わかりやすく問題がスッキリ解決された姿を描写します。もちろん内面的な成長も描かれますが、「具体的にどう成長したか」が明示されるため、読者が行間を読む必要がありません。

これは良し悪しの問題ではありません。日本の読者が「余韻」を楽しむのに対し、海外の読者は「明快な解決」を楽しむ。どちらが優れているという話ではなく、読者が物語に何を求めているかの違いです。そして日本の読者層が徐々に「明快な解決」を好む方向にシフトしているのが、現在の状況です。

違い3:比喩表現のアプローチ

海外の小説では、登場人物を有名な歴史上の人物や他の作品のキャラクターに例えることがよくあります。また聖書やギリシャ神話のエピソード、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザのような世界的アート作品が比喩として登場することも珍しくありません。

これは「共通体験の不在」に起因しています。多民族国家において国民が共有しているのは、自国の歴史、宗教的な経典、世界的に有名な芸術作品くらいしかない。だから何かを例えようとすると、必然的にそういった「確固たるもの」に頼ることになります。逆に言えば、それらの知識が比喩を理解するための前提条件になっている。海外文学を読む際に聖書やギリシャ神話の知識があると理解が深まるのは、このためです。

一方、日本の小説では、登場人物を他の作品のキャラクターに例えることは稀です。古事記や日本書紀のエピソードを比喩に用いることもほとんどありません(逆に聖書やギリシャ神話は使われます)。その代わり、季節や自然の描写、感覚的な言い回しで美しい比喩を作ります。「桜が散るように」「秋の空のように高く澄んだ」といった表現が成立するのは、日本の読者が四季の感覚を共有しているからです。共通の感覚があるからこそ、「確固たるもの」に頼らなくても伝わるのです。

違い4:海外の比喩に見る「伝わる言葉」の設計

海外の比喩表現を見ると、共通体験がない文化圏で「それでも伝わる言葉」がどう設計されているかがわかります。

いくつか例を挙げます。

• “The sound of rain is music to my ears."(雨音は私の耳には音楽だ)——感覚を「音楽」という普遍的概念に例える

• “He is as brave as a lion."(彼は獅子のように勇敢だ)——動物という万国共通のイメージで表現

• “Life is a journey."(人生は旅だ)——誰もが理解できるシンプルな単語で抽象概念を具体化

• “I wrote the body of the essay."(エッセイの本文を書いた)——「body(体)」で文章構造を表現

共通するポイントは、動物、誰もが認識できるシンプルな単語、身体の部位など、文化や背景を問わず伝わるものに例えている点です。自分の内面の感覚をそのまま言語化するのではなく、外部の具体物に変換する。この手法は、共通体験が薄れつつある現代日本の読者に向けて書く際にも参考になります。

たとえば「彼女の心は秋の空のように澄んでいた」と書いたとき、日本の読者ならそこに透明感と寂しさを感じ取れます。しかし四季の感覚を共有しない読者には伝わりません。そのとき「彼女の心はガラスのように透明で、触れれば割れそうだった」と書き換える——これが「外部の具体物に変換する」技術です。文化を問わず伝わる比喩の設計は、これからの日本の作家にも求められるスキルになるでしょう。

創作者は「海外化」にどう備えるべきか

ここまで違いを整理してきましたが、私自身は「日本の小説が海外化する」ことをあまり望ましいとは思っていません。察する文化から生まれる余韻のある表現、行間に込められた感情——これらは日本文学の大きな魅力だからです。

しかし変化は止まりません。価値観の多様化で察する下地が薄れ、共通の知識が失われていく。その中で日本的な表現にこだわりすぎると、「読者にとっての暗号文」になってしまうリスクがあります。読解できない、面白さも理解できない。そうなると「昔の作品はよかった」と古い作品ばかり読む層が生まれ、新しい作品との断絶が起きかねません。

私たち兼業作家は、限られた執筆時間の中で「読者に届く表現」を常に意識する必要があります。そのためにも、海外小説の「伝わる技術」を学ぶことには大きな意義があります。

では兼業作家として、この変化にどう対処すべきか。私が日々の執筆を通じて考えるのは以下の3つです。

1. 行間で伝える技術は維持しつつ、セーフティネットとして明示的な描写も併せて用意する
2. 比喩は「自分だけが共感する内面の感覚」ではなく「読者も知っている具体物」で設計する
3. 「察してほしい」を減らし、「これを知ってほしい」を増やす

日本の小説の良さを残しながら、現代の読者への伝わりやすさも両立させること。それは簡単ではありませんが、意識するだけで文章は変わります。これが2026年以降の創作者に求められるバランス感覚だと考えています。

まとめ

海外小説と日本小説の違いを生み出しているのは、「察する文化」と「共通体験」の有無です。そしてこの2つの前提が、日本でも徐々に揺らぎ始めている。

この変化を嘆くだけでなく、創作に活かす。海外小説の「伝わる技術」を学びつつ、日本小説の「余韻を残す技術」も手放さない。その両立ができる作家こそが、次の時代の読者の心を掴むのではないでしょうか。

変化はすでに始まっています。「昔の小説はよかった」と懐古に浸るのではなく、「これからの読者に届く言葉」を粘り強く探し続ける。それが兼業作家の私が、このテーマと長い時間をかけて向き合ってたどり着いた結論です。

どうですか、書ける気がしてきましたか?
もし悩むことがあったら、このブログに戻ってきてください。同じように初心者だった私が、基礎から応用まで気づいたことを書き綴っています。
さあ、今日も物語を書きましょう。あなたの傑作を待っています。


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