『超かぐや姫』感想・考察|どこを切り取っても面白い142分のYoutubeショート

こんにちは。腰ボロSEです。今回は6/16でフィナーレを迎える『超かぐや姫』の感想・考察です。

※この記事は映画『超かぐや姫』のネタバレを含みます。

 

『超かぐや姫』を見終わったあと、しばらく胸の奥が変に痛みました。

泣ける映画を見たあとの、気持ちよく涙を流したような感覚ではありません。感動した、よかった、泣いた、という整理された痛みでもありません。もっと遅れて来る痛みでした。

 

映画を見ている最中は、むしろずっと楽しかったのです。笑いましたし、勢いに乗せられましたし、テンポが速すぎて悲しい場面が来ても、こちらの感情が沈み切る前に次の楽しさへ連れていかれました。

 

体感としては、面白いYouTubeショートを142分ずっと見せ続けられているような映画でした。

 

それなのに、最後の方で急に息ができないくらい胸が痛くなりました。

 

なぜなのかと考えると、この映画には普通の考察では拾いきれない変な仕掛けがあるように思います。

 

ループ構造、楽曲、月、竹取物語との対応。もちろんそれらも重要です。ただ、私が本当に引っかかったのは、もう少し手触りのある部分でした。

YouTubeショートを142分見せられた感覚主人公の強さを示すRTA。そして、焼きそばを全部食べるくらいの意地悪さしかない笑い

 

一見バラバラに見えますが、この3つは全部つながっています。

どれも、最後に「8000年の孤独」を痛くするための装置だったのではないでしょうか。

 

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普通の考察では拾いきれない感覚

『超かぐや姫』は、設定だけを見るとかなり重い映画です。

8000年。孤独。会えない時間。待ち続ける存在。言葉だけ並べれば、かなり壮大で、かなり悲劇的です。

 

 

しかし映画本編の体感は、最初から最後まで重苦しいわけではありません。むしろ、異常なほど楽しいです。笑い、踊り、失敗、勢い、画面の変化、音楽の快感が次々に来ます。

このギャップが面白いところです。

普通なら、8000年の孤独を描く映画は、もっと静かに、重く、長く見せると思います。時間の重さを観客にじっくり受け止めさせる。沈黙を置く。孤独の長さを引き伸ばす。そういう方向へ行きそうです。

 

でも『超かぐや姫』は、かなり逆のことをしています。

観客に8000年をじっくり処理させません。かぐやが孤独に打ちのめされ、うつむく場面は実際のところ3秒くらいしか映されていませんでした。むしろ、高速テンポで感情を先へ先へ運びます。楽しい場面を重ね、笑いを重ね、かぐやの生命力を積み上げます。

 

その結果、観客は8000年を情報としては知っているのに、感情としてはまだ受け止めきれていない状態になります。

そしてエンディングテーマの歌詞を聞きながら、急にその情報が人格と結びつきます。

あんなに楽しいことしかやりたがらなかった子が、8000年ずっと耐えていたのだと、遅れて理解してしまうのです。

 

 

YouTubeショートを142分見せ続ける映画

まず、この映画のテンポについて考えます。

『超かぐや姫』は、物語が止まりません。悲しみが長居しません。失敗、笑い、踊り、感動、情報、画面の変化が高速で来ます。

観客は、置いていかれないように必死で追いかけます。

このテンポは、単に現代的で見やすいというだけではありません。かなり意地悪な機能を持っています。

それは、観客に「8000年の重さ」を処理する暇を与えないことです。

 

映画の中では、8000年という言葉や状況は出てきます。けれど、物語の速度が速すぎるので、観客はその時間を体で受け止める前に次の場面へ進んでしまいます。

体感としては、8000年ではなく8000秒くらいに圧縮されているように感じます。

この圧縮が、終盤で反転します。

それまで軽やかに走っていた物語が、急に「でも本当は8000年です」と現実を取り戻す。観客はそこで初めて、自分が処理していなかった時間の重さに殴られます。

 

つまり、この映画の高速テンポは、感情を軽くするためではありません。

感情の理解を遅らせるため に機能しているのです。

創作でいうなら、これはかなり使える技術です。重い設定を最初から重く描きすぎると、読者は身構えます。しかし、あえて楽しいテンポで走らせ、読者が油断したあとに設定の本当の意味を回収すると、痛みは遅れて深く刺さります。

完全に余談ですが、映画が始まってから、かぐやが本当の意味でイロハと再会するのは、おそらく8000秒あたりだったのではないでしょうか?たぶん、狙ってやっていると思います。

主人公の強さを示すRTA

次に、イロハの描き方です。

この映画は、冒頭からかなり早い段階でイロハの強さを見せます。

分刻みのスケジュール。徹夜。赤ん坊かぐやの出現。普通に考えると面倒で、うざくて、予定を壊されて、見捨ててもおかしくない状況です。

 

でもイロハは見捨てません。

ここで、イロハの人格が一瞬で伝わります。

この描写は、主人公の強さを示すRTAのようです。長い説明を置かず、限界状態に他者を投げ込み、それでも抱えられるかを見せる。そこで観客は、「あ、この人はとてつもなく強い人なんだ」と納得します。

身体的な強さは、わりと誰でも表現できます。

剣を振る。敵を倒す。特殊能力を使う。爆発に耐える。もちろん難しさはありますが、画面としてはわかりやすいです。

 

しかし、現代の観客に本当に刺さる強さは、そこだけではないと思います。

限界状態でも、他者を抱えられる精神的なキャパシティ。自分の予定が崩れても、目の前の命を放り出さない強さ。怒ってもよさそうな場面で、雑に見捨てない強さ。

イロハの強さは、そこにあります。

 

だから、かぐやが8000年待つ理由が成立します。

もしイロハがただ優しいだけの人物なら、少し弱かったかもしれません。もしイロハがただ特別な能力を持つ人物なら、やはり違ったと思います。

限界状態で他者を抱えられる人として、冒頭で一気に認証される。だから終盤の「会いたい」が、ただの恋愛感情や執着ではなく、この人に会いたかったのだと納得できるのです。

パリに咲くエトワールでは、メインキャラクターが Why they can be here(なぜここにいられるのか)、Why they want to be here(なぜここにいたいのか)、Why they need to be here(なぜここにいなければならないのか)を冒頭40分で完璧に示しているのが凄かったです。『超かぐや姫』ではそれよりも圧倒的に早くイロハのキャラクター付けを完成させて、物語に巻き込んでいくという作り方に現代アニメのひとつの頂点をみた気がします。

焼きそばを全部食べるくらいの意地悪さしかない

もう一つ、かなり大事なのが笑いの質です。

『超かぐや姫』の笑いは、勢いがあります。ゲーミング電柱の扉が音を立てて開くシーン、閉めてもまた開くシーンはなんとか笑いをこらえました。変顔もあります。失敗もあります。テンポで押し切る場面もあります。

 

でも、悪意が少ないです。

誰かを深く傷つけて笑わせる方向へは、あまり行きません。冷笑に向かわない。見ている側が、誰かを見下すことで笑う空気になりにくいのです。

イロハの意地悪さも、せいぜい焼きそばを全部食べるくらいの意地悪さとして感じられます。

この「悪意の浅さ」は、かなり重要です。

もし映画の笑いがもっと冷笑的だったら、かぐやの明るさは少し濁っていたと思います。楽しい場面の中に、他者を傷つける快感が混ざってしまうからです。

 

でも、この映画の笑いは、基本的に生命力へ向かっています。

失敗しても笑う。勢いで笑う。身体が動く。世界が面白い。今この瞬間が楽しい。そういう方向へ笑いが流れていきます。ダンスの振り付けもどこか滑稽ですが、かぐやの生命力を感じます。

 

だから、かぐやの「生きるって楽しい」という感覚がまっすぐ積み上がります。

笑いが濁らないから、生命力が濁らない。生命力が濁らないから、終盤で「その子が8000年一人だった」という事実がより痛くなるのです。

 

 

笑いのセンスもよかったし、テンポも異常によかったし、見ている間はずっと退屈しなかった。だからこそ最後に苦しくなった。楽しさが、痛みの準備になっていた。笑顔が、孤独の重さを増幅していた。けれど、イロハの精神的な強さ、魂の強さはその孤独すら跳ね返すくらい強かった。やりたいことにまっすぐ挑戦する姿は、物語の最初のイロハと全く真逆でした。流れに身を任せていっぱいっぱいになっていたイロハはもういなくて、ヤチヨをタブレットに表示しながら、兄に融資を依頼し、使えるものをつかってハッピーエンドにするために進んでいく。

『超かぐや姫』は、たぶんそういう映画だった。

生きるって楽しい。

ハッピーエンドにするために私もやってみよう。誰もが勇気づけられたアニメだったのではないでしょうか。

 超かぐや姫 を見る

 

3つの装置が8000年の孤独を遅れて効かせる

ここまでの3つを整理します。

高速テンポは、8000年の重さを一時的に感じさせません。観客は情報として知っていても、感情として処理しきれないまま走らされます。

主人公RTAは、イロハを「8000年待たれるだけの人物」として早い段階で成立させます。観客は、かぐやが会いたいと願う理由を受け入れられます。

悪意の少ない笑いは、かぐやの生命力を濁らせません。楽しいことが好きで、生きることが好きで、世界へ飛び込んでいきたい子として、かぐやが積み上がります。

装置表面上の効果終盤での効き方
高速テンポ楽しく見られる8000年の実感を遅らせる
主人公RTAイロハの人格がすぐ伝わる待ち続ける理由が成立する
悪意の少ない笑い明るさが濁らないかぐやの生命力が積み上がる

この3つがそろった結果、終盤で感情が発火します。

あんなに楽しいことしかやりたがらなかった子が、8000年も我慢していた。
あんなに世界を面白がっていた子が、8000年も会えない時間を過ごした。
あんなに今この瞬間へ飛び込む子が、8000年も待ち続けた。

 

ここで初めて、数字と人格が結びつきます。

8000年という設定だけなら、物語はいくらでも盛れます。100年でも1000年でも1万年でも、数字は書けます。

 

でも、その時間を過ごしたのが誰だったのかが見えた瞬間、数字は痛みに変わります。

また、意地悪いのは胸の中に少しずつ積みあがった痛みを発散させてくれないことです。エンディングの前に盛大なライブシーンがあり、笑顔や涙を浮かべる登場人物が見えていたら、この痛みは和らいだかもしれません。しかし『超かぐや姫』は幽遊白書のラストシーンのように、ダイジェストでその後の展開を伝えるスタイルをとりました。

これによって行き場をなくした痛みが胸を貫いたのだと感じます。

 

BUMPでありRADWIMPSである痛み

少しだけ、音楽的な感覚にも触れておきます。

『超かぐや姫』には、BUMP OF CHICKEN的だと感じる瞬間と、RADWIMPS的だと感じる瞬間がありました。

 

BUMP的だと感じたのは、大切な人の声を聞いた瞬間に、世界の見え方が変わるところです。世界そのものが救われたわけではないのに、たった一人の声が聞こえたことで、景色の解像度が上がる。あの感覚は、孤独な人に小さな光が差す物語ロックに近いものがあります。

RADWIMPS的だと感じたのは、8000年という宇宙規模の時間を、世界を救うためでも使命のためでもなく、ただ一人に会いたいという個人的な動機で越えてくるところです。

馬鹿みたいに壮大なのに、理由はあまりにも個人的です。

 

このアンバランスさが痛いのです。世界のためなら理屈がつきます。使命のためなら物語として整理できます。でも、たった一人に会いたいという気持ちだけで8000年を越えてくるとなると、理屈では受け止めきれません。世界には愛が足りない……だから愛にできることはまだあるかい?と問うた天気の子を思い出しました。

 

 

そして「メルト」という曲が持っている感情の記憶も、そこに重なります。

ここでは歌詞の話ではなく、世代の記憶としての曲の話です。ある世代にとって、「メルト」はただの挿入歌ではありません。ニコニコ動画の黎明期、大ヒットしたこの曲を聴いていた世代にとっては、あの当時のみんなで何かを楽しんだワチャワチャ感、誰もがクリエイターになれる時代が始まったという感覚、ネット文化の空気、それら言葉にできなかった感情ごと運んできます。

だから、使い方への評価が割れるのもわかります。曲に強い記憶を持っている人ほど、期待値が高くなるからです。著者はメルトの今回のリミックスに納得のいっていないものの一人です。

それでも、この映画が音楽の記憶を感情装置として使っていることは間違いないと思います。

 

創作に応用するなら

『超かぐや姫』から創作者が学べるのは、重い設定をどう見せるかです。

重い設定を重く描くのは、わかりやすい方法です。孤独なら暗くする。長い時間なら静かにする。悲劇なら泣かせる。もちろん、それも正しいです。

でも、この映画は違う方法を使っています。楽しくする。速くする。笑わせる。生命力を積む。そのあとで、実はその生命力のある子が、長い孤独を耐えていたのだとわからせる。

これはかなり高度な感情設計です。あなたの物語に使うなら、まず「最後に痛くしたい事実」を決めます。次に、その事実を最初から重く見せるのではなく、別の感情で包みます。楽しさ、笑い、憧れ、日常、愛着。読者がその人物を好きになってから、事実の本当の重さを戻すのです。

このとき大事なのは、読者を騙すことではありません。

読者に情報は渡しておく。ただし、感情として理解するタイミングを遅らせる。情報の開示と感情の着火をずらす。そこに強い余韻が生まれます。

まとめ

『超かぐや姫』は、8000年の孤独を最初から重く描く映画ではありません。

むしろ、142分の快感で観客を走らせます。冒頭数分でイロハを信頼させます。悪意の少ない笑いで、かぐやの生命力を濁らせないまま積み上げます。

だから最後に、「この子が8000年一人だった」という事実が、遅れて胸を殴ってくるのです。

高速テンポは軽さではありません。主人公RTAは雑な説明省略ではありません。焼きそばを全部食べるくらいの意地悪さは、単なるギャグではありません。

全部、終盤の痛みを成立させるための装置だったのだと思います。

重い設定を書くときは、最初から重くしなくても構いません。むしろ楽しさを積み上げたあとで、その楽しさが失われた時間を見せるほうが、深く刺さることがあります。
さあ、今日も物語を書きましょう。あなたの傑作を待っています。


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